Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画 Dear フランキー     ショーナ・オーバック監督  

Dear フランキー [DVD]

 

 

読唇術の世界チャンピョン、そんな読唇術の世界大会なんて実際にあるのかしら、不思議に思ってググってみたが、それらしき大会についてはヒットしなかった。ということは、これは劇中の母親が勝手に作った話であるのか? そうかもしれない、そうかもしれないのだが、この映画の主人公である、難聴という障害を持つ少年、フランキーは実に巧みに、ひとの唇の動きを読むのである。この読唇術に秀でたフランキーの能力は、ラストのフランキーの一言に説得力を与え、ここでまた、映画を観ているものを感動させる。

 

この物語は、主人公の少年フランキーとその母、とフランキーの祖母が、何やら慌てふためいて引っ越しのために車を走らせ、新しい家に到着し、その地で新しい生活を始めるところから始まる。母親はフランキーに一つの嘘をついてる、そしてその嘘がフランキーにばれてしまうことを、ひどく恐れている。なぜなら、母親の嘘はフランキーを幸せにしているのだから。そんな、嘘が、フランキーにばれてしまいそうになる、嘘の暴かれることを恐れた母親は、実に、奇想天外な方法でこの問題を解決しようとする。ここら辺が、この映画のポイントとである。このあたりのストーリー展開において、筆者は、有名なフランスの作家、モーパッサンの短編、「シモンのとおちゃん」を思い起こすのであるが、監督の手腕はストーリーをさらにひねりにひねり、この映画を “いい” 映画にしているのである。

 

フランキー少年はたくましい、新しく転入した学校では、難聴というハンディのために、からかわれたり、いじめられたりするのではないか、と監督は観ている者に思わせるのであるが、いじめっ子になりそうであった少年リッキーとは友達になり、リッキーはフランキーの机に、英語で ”難聴“ と書いて嫌がらせすると、その単語のスペリングミスを直してやるシーンなどは、ユーモラス。フランキーは地理が大得意、かたやリッキーは大の苦手、そんなところでリッキーはフランキーに頭があがらない。そこにもう一人、女の子の友人も加わる。そんな、フランキーの友人関係も、この映画にスパイスを利かす、いい感じ。

 

この映画はイギリス映画であり、イギリスの労働者階級の家庭を描いている。イギリスの労働者階級や貧しい人々に焦点を当てた社会問題を描くという点においては、ケン・ローチと言う優れた監督がいるのであるが、この映画「Dear フランキー」の、ショーナ・オーバック監督の腕も冴えに冴えており、社会問題を描いているのであるが、そんな社会に生きる障害を持つ子供に悲壮感などは全くなく、どこまでも、前向き、未来志向、スマートなのである。何しろ、読唇術世界チャンピョンなのだから。そして、そんな描写がケン・ローチ監督と一線を画しているように思える、もっとも、筆者もケン・ローチ監督の作品をすべて観ているわけではなので、異論はあるやもしれぬ。

 

フランキー少年が全編を通して、前向き、未来志向でいられたのは、やはり、母親の嘘のおかげであると感じる、母親が、その秘密を守り通すために、あれほどの奇想天外な方法を選んだのには、ひとえに、フランキー少年の心をつぶしたくないという一心であったと思われる。そして、ラストはそんなフランキー少年にも、母親にも、過酷な状況であったにもかかわらず、ハッピーな結末となるところに、この映画の魅力があると感じる。

 

映画がエンドとなった後にも、観客はフランキー少年と母親のその後を想像することができ、ストーリーは語られないのであるが、再び、ハッピーな気持ちにさせられるという効果もある。イギリスの一つの社会問題を描いた映画ではあり、重さも十分に感じられる映画ではあるのだが、先にも書いた理由により、ラストに暗さはない、前向き、未来志向のラスト、と言えるのではないか。

 

とてもいい映画、是非、たくさんの方に見てほしい!

映画 暗くなるまで待って  オードリー・ヘップバーン 主演/    テレンス・ヤング 監督

暗くなるまで待って [DVD]

 

“華やかで清純な妖精” 、「ローマの休日」であるとか、「麗しのサブリナ」、「パリの恋人」など、ヘップバーンの映画からうかがえる、ヘップバーンのイメー。また、一方で「ティファニーで朝食を」、前3作とは違った一面を見せるオードリーであるが、”妖精のような可憐さ“  は変わることなく、ヘップバーンが主演するどの映画を見ても、観る者は彼女の美しさにため息をつくのではなかろうか。そんな美しくファッショナブルなオードリーが今回演じるのは、盲目の主婦であり、その役どころには、”華やかさ“ も ”可憐さ“ も ”ファッション性“ もないのであるが、オードリー演じる盲目の主婦には、なんというか、凛とした清楚さが感じられ、盲目ながらも、世界チャンピョン級の盲人になろうと、また、彼女の夫も彼女を甘やかすことなく、彼女のために厳しい態度をとったりするのである。

 

夫が海外の空港で、見知らぬ女性から人形を預かってしまったために、この主婦は事件に巻き込まれることになる、彼女の家に、怪しい男たちがやってくる。が、目の不自由な主婦スージーは、彼らのヘタな芝居に騙される、だまされてしまうのであるが、彼女もなかなか手ごわいのである。暗闇の世界に生活している者だけに研ぎ澄まされる感覚と知恵によってスージーは、男たちの三文芝居の怪しさに気づいていく、気づいていきながら、犯人の裏をかいていく、そんなスージーの様を見ているのは気持ちがいい、目が不自由だからと言って、健常者が侮ることはできないのである。

 

監督は初期の頃の007シリーズを撮った、テレンス・ヤング監督であり、チャールズ・ブロンソン三船敏郎アラン・ドロンの3人のビッグスターを主役にした、「レッド・サン」なども手掛けている。007シリーズを撮った監督が、007シリーズにでてくるボンド・ガールとは180度違ったタイプの女性、オードリーを主人公に添えて、アクション全くなしの、静かなサスペンスを作った、と言いうところがこの映画のみどころと言えなくもない。

 

また、目の不自由な女性と言ってすぐに思い浮かぶのは、三重苦であったヘレン・ケラーであり、三重苦というハンディを背負いながらも、著作を出版し、世界各地を公演して回ったヘレン・ケラーのエネルギーと勇気を思うとき、この映画「暗くなるまで待って」のスージーヘレン・ケラーと同じ勇気を持って、勇気あればこそ、あの信じられないような難局を見事に乗り切って、ラストのシーンへとつながるのではなかろうか。

 

一方、この映画で面白いと思ったのは、怪しい男たちの中で、スージーの夫の友人を演じている男が、最後にはスージーの勇気と知恵に脱帽して、本来の彼らの目的を果たさずとも、スージーのもとを去ろうとするところであり、どうやら、もともと根っからの悪人でもなさそうなのであるが、彼のたどる運命はやはり、自分のとった行動の報を受ける、と考えられる。どんな運命であるかは映画を観てほしい。

 

また、同じアパートに住む少女、グロリアも忘れてはいけない存在で、時に情緒不安定でヒステリーを起こすのであるが、彼女もスージーを愛している。かように、スージーは夫にご近所さん、果ては、怪しい男たちの一人からも好感を持たれるのである。そんな人々の心を打つもの、それは、やはり、目の不自由なスージーの生きようとする真摯な姿勢にあるのではないかと思われる。

 

映画「暗くなるまで待って」では、スージーは暗闇を作ろうと必死になり、怪しい男たちは、明かりを求めて必死となる、その両者の必死さが、映画のクライマックスでぶつかり合い、見ている観客をドキドキさせる‥‥ということで、この映画、本来は、部屋を真っ暗にしてみるならば、そのサスペンスも十分堪能できるのではないか、と思うのでした。

 

 

 

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映画 Mr. & Mrs. スミス    ブラッド・ピット   アンジェリーナ・ジョリー    主演 

Mr.&Mrs.スミス プレミアム・エディション [DVD]

 

英語のSmith (スミス)と言う姓は、日本語で言うと、鈴木さんであるとか、佐藤さんなどの姓と同じであり、鈴木さんや佐藤さんと同じく、実にたくさんのSmith を姓に持つ人々がいる。鈴木さんや佐藤さんと言う姓は、日本人にとっては、なじみのすぐそこにいるお隣さん、という感じを醸し出す姓である。そして、全く同じことが英語の姓Smith(スミス)さんにも言えるのではないか、そして、そこからこの映画は始まる。

 

この映画のタイトル、「Mr. & Mrs. スミス」を日本語にしてみると ”スミスさんの旦那さんと奥さん“ とでもなろうか。アメリカ人がこの映画のタイトル「Mr. & Mrs. スミス」ときいた時にひらめくイメージというのは、まさに、日本人が ”鈴木さんの旦那さんと奥さん“ というセリフを聞いたときにひらめくイメージとそう変わりはないであろうと、こちらも推察される。

 

が、しかし、その 、いつもご挨拶するご近所の ”スミスさんの旦那さんと奥さん“ が、ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーである、という事実を見せつけられるとき、ああ、この、”スミスさんの旦那さんと奥さん“ は一筋縄ではいかない、どうやら、この夫婦は一癖も二癖もある旦那と奥さん に違いないのでは、となにかザワザワ胸騒ぎがおこり、映画を観る前から、”とんでもない” スミスさんの旦那さんと奥さん” が見られるのではないかという期待感へとつながる。

 

実際、映画を観ればわかってもらえるのだが、この ”スミス夫妻“ は、とんでもない旦那と奥さんであることが、映画のほぼ最初の頃にわかってくる。わかってしまえば、その後の展開は、もう、アクションに次ぐアクション、駆け引き、だましあい、さまざまな戦闘テクニック、など織り交ぜて、一気にラストへと突っ走る、ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーも、不死身とも思える戦闘テクニックと戦いを映画全編を通して、又、最後のクライマックスでも見せるのである。

 

夫婦で同じ仕事をしているカップルは星の数ほどいるのであるが、ミステリーファンの筆者としては、どうしても、思い出してしまうのは、ミステリーの女王、アガサ・クリスティが生み出したトミーとタッペンスという、おしどり探偵の物語である。彼らの場合は “Mr.& Mrs. ベレスフォード(Beresford)“ 。この二人の物語では銃撃戦等のアクションはなく、クリスティのミステリーらしく、ウィット、機知にとんだ事件展開となり、筆者のお気に入りのシリーズである。”Mr. & Mrs. スミス“ でアクションてんこ盛りの世界にひたった後には、こちらの “Mr. & Mrs.ベレスフォード” で、ミステリーの世界に足を踏み入れてみるのも悪くないのでは、と感じる。

 

映画のほうでは、”スミスさんの旦那さんと奥さん” の冒険は終息し、結婚5年を迎え、倦怠期に入りつつあった旦那さんと奥さんは、見事、夫婦の危機を乗り越え、再び平和な日常をとりもどす。実生活においては、この映画で主役を演じた二人の俳優は、この映画をきっかけにウェディングベルを鳴らし、平和で幸せな生活を送る。もっとも、何年かの後には、泥沼の離婚劇を演じることになるのだが。

 

アクションに次ぐアクションの映画、アクション疲れした後は、”スミス夫妻” の末永い幸せを祈って、映画は幕となります。

 

映画  ブルース・ブラザース    ジョン・ベル―シ   ダン・エクロイド  主演

ブルース・ブラザース (字幕版)

 

黒ずくめのスーツに黒のサングラス、このスタイルは10年以上の時を経て、映画「メン・イン・ブラック」に引き継がれているのであるが、映画「メン・イン・ブラック」は、宇宙人が実は、すでに、地球で地球人と共存している、という設定に基づいたSF映画であり、このジョン・ベル―シとダン・エクロイドの二人を主演とした、コメディ映画「ブルース・ブラザース」とはまったくジャンルは異なり、元祖黒ずくめのスーツにサングラスの二人組は、コメディアンの本領を発揮して、この映画で、実にばかばかしくも、おかしくて、奇想天外な物語を観る者に見せてくれるのである。

  

映画「ブルース・ブラザース」の黒ずくめ二人組は、タイトルからも推察できる通り、兄弟、ブラザース、であり、ジョン・ベル―シ演じる、兄、ジェイクが刑務所から出所する、ダン・エクロイド演じる、弟、エルウッドがその兄を迎えに来る、というところから物語は始まる。主役のジョン・ベル―シとダン・エクロイドは一流のコメディアンであるので、笑いのツボはしっかり押さえており、弟、エルウッドに車を運転させたが最後、或る些細なきっかけから、二人の車による逃避行が始まり、この逃避行がこの映画の一つ目のツボとなる。

 

また、ジェイクには彼女がいたようで、結婚の約束をし、実際に結婚式を挙げるところまで行くのであるが、その肝心の結婚式に、ジェイクが現れなかったかという理由により、恨みは骨髄に達し、その復讐をせんとするストーリーも展開される。この流れも、やはり、この映画のツボの一つであり、映画の後半にあって、ジェイクの女たらしぶりが描かれることになって、笑えるのである、ここは、劇中、ただ一度だけ、ジェイクがサングラスを取るシーンなのである、もしかしたら、貴重なワンシーンでもあるか。

 

さらに、この主演のジョン・ベルーシとダン・エクロイドはコメディアンであると同時に、ミュージシャンでもあり、R&B/ブルースの音楽バンドのメンバーでもある、実際、映画の中では、彼らの音楽的才能もいかんなく発揮される。ある理由のために、彼らは、音楽バントの再結成に立ち上がり、見事バンドは再結成されて、映画の中では、このバンドのキレる演奏を楽しむことができる、加えて、この主役二人は、うたって踊り、その歌も、踊りも、なかなかのもので、見ていて目を見張る、聴いていて、耳をそばだてる、思わず、拍手して、ブラボーと叫びたくなると言ったら、大袈裟だろうか。

 

そして、又、さらに言うならば、あるシーンにおいては、まるでミュージカル映画のごとく、出演者たちが歌って踊り始める、これらのシーンもなかなかのもので、バンドのキレッキレの演奏同様、キレッキレの歌とダンスを披露してくれて、こちらも、拍手して、ブラボーと叫びたくなるようなシーンなのである。

 

そんな、いくつものツボ、そう、笑いのツボ、称賛のツボを映画のあちらこちらにちりばめて、ジェイクとエルウッドは映画のラスト、クライマックスへとひた走る…‥そんな、クライマックスとラストは、映画を観て楽しんでほしい。定石と言えば、或る意味、定石すぎるラストへと向かうの展開なのであるが、そのスケールは大きくて、あっぱれ、と言うか、やっぱり、やるなあ、という感じ。

 

ただ、一つ、この映画を観終わって筆者が残念だったことは、劇中で再結成されたバンドのメンバーと客演ミュージシャンの顔ぶれが実に豪華なことでもこの映画は話題となったということであるが、筆者が知っていた豪華な顔触れというのは、レイ・チャールズ一人であった、ということ、まあ、レイ・チャールズだけでも、大物ミュージシャン出演している、と思ったりしたのですが‥‥知っている人が観れば、きっと、もっと楽しめたであろうと感じる。

 

こんなふうに、この映画の ”ツボ“ は、結構、数限りなくあるわけで、筆者のように、R&B/ブルースに詳しくなくても、どこかのツボでヒットできることは間違いないと思う映画。ぜひ一度、観て、”驚いて“ 笑ってほしいと思う次第。

映画 「ホビット 思いがけない冒険」   マーティン・フリーマン 主演   :悪くないけれど残念な映画

ホビット 思いがけない冒険 (字幕版)

 

スペース・ファンタジー、映画「スター・ウォーズ」のシリーズが全9作続き、宇宙を舞台に善と悪が衝突する物語がファンを熱狂させたこと、また、シリーズが完結してもなお、ファンを熱狂させ続けていることは、改めて言うまでもなく、世の映画ファンの承知していることであり、同様に、このイギリスの作家、トールキンの生み出した、ファンタジーの世界もまた、映画「スター・ウォーズシリーズ」と同様に、魅力的に、映画ファンを引き付ける、と言ってもいいのではなかろうか。

 

映画「ホビット 思いがけない冒険」は、前三部作の「ロード・オブ・ザ・リング」の前日譚というもので、映画「ホビット 思いがけない冒険」には、当然のことながら、映画「ロード・オブ・ザ・リング」でおなじみのキャラクターの顔を見ることができる。映画は、失われたドワーフたちの王国を再び取り戻すために、ドワーフとその仲間たちが、王国目指して旅していくのであるが、そう簡単に目的地にたどり着くことができるわけはなく、様々な苦難に出会う物語である。ドワーフというのは、いわゆる ”小人“ であり、ファンタジーの劇中では通常より身長の低い種族、ということになっている。BBCのTVドラマ「シャーロック」の、ジョン・ワトソン役でおなじみの、マーティン・フリーマンが主役を務め、マーティン・フリーマンホビット族の青年、ビルボ・バギンズ役で、ドワーフたちと行動を共にする。ホビット、という種族も、小柄であり、どうやら、ドワーフと同じくらいの身長、ことによったら、もっと小柄の種族、ともいえる。そこに、前作からのお馴染みの魔法使い、ガンダルフが加わり、総勢、13人のドワーフホビット一人、魔法使い一人、15人の旅の行方だ。

 

彼らの旅の行方は一難去って、また一難、トロルやらオークやらゴブリンといった、巨人であったり、獰猛かつ残虐な種族であったりで、彼らの行く手を阻む者は後を絶たず、その宿敵たちとの追いかけっこがこの映画の見どころともなる、見どころともなるのだが、前三部作「ロード・オブ・ザ・リング」から、数えて4作目ともなると、やはり追いかけっこにも多少新鮮味が欠けてしまうところは、否めず、それでも、スピード感をだして、特撮も駆使して、なかなか見せてくれるのではある、が、気持ち、退屈感を感じてしまったりもするのである。

 

また、ラスト近く、谷底に落ちそうな木の枝にしがみついている魔法使いのガンダルフが、同じく木の梢にとまっている蝶に気づいて、蝶を指先にうつし、ささやくようにして空へ返すシーンを見た筆者は、ドワーフたちがこの絶体絶命のピンチから救われるためには、巨大な蝶であるとか、空飛ぶ魔法の絨毯であるとか、空飛ぶ物体がでてくるしかないのだろう、と思った。おそらく、映画を観ている観客も、ここに至って、筆者と同じことを、思うのかもしれない、すると、案の定な展開となり、今にも崖っぷちから奈落の底へ落下しそうな木にしがみついている、ドワーフたちを救出してくれる、ここら辺は、意外性に欠ける、先が読めてしまう、という点において、監督はもう少し工夫して、頑張ってもよさそうなものではなかったか、と思ったりもする。

 

  さらに、思うに、ガンダルフは魔法使いなのだから、もっと魔法を気前よく使って仲間の窮地を救えなかったのか、であるとか、ホビットのビルボと前三部作にも登場するゴラムという不気味な生物との、なぞなぞ合戦は一体何だったのか、であるとか、何かのギャグのつもりで挿入されたシーンか、と筆者は首をかしげたところである。

 

  こんなふうに、いろいろ思ったり気づいたところはあったのであるが、総合してみると、筆者はこの映画を気に入っており、ゴブリンたちの人海戦術のごとき圧倒的な数でドワーフたちを追い回すシーンは悪くはなく、妖精種族と思われるエルフや彼らの住む谷のシーン、森に住む魔法使いが描かれるシーンなども好きであり、岩石人間が岩を投げ合いながら喧嘩しているシーンも面白かったりして、なかなか悪くもないのである。

 

  同じファンタジーと言っても、映画「ホビット」と映画「スター・ウォーズ・シリーズ」のスペース・ファンタジーとはやはり、当然ながら違っていて、後者では、宇宙船がでてきて、宇宙船チェイスができるぶん、超スピード感のある映像を見ることができ、よりテンポの良いストーリー展開をみることができる、その点において、後者は有利(?)な立場にあるといえなくもない。

 

  が、この映画「ホビット 思いがけない冒険」も、前三部作の「ロード・オブ・ザ・リング」も、トールキンが創造した、不思議で、やはり、ワクワクするような世界を活字から離れて、映像として見せてくれるという点において、素晴らしく、筆者はこの後も、まだ未見である続編の第2部「竜に奪われた王国」も第3部「決戦のゆくえ」も、見るつもりでいるのである。

 

  見るつもりであるのだが、先にも書いたように、いろいろ注文つけたくなってしまうということで、今回は、悪くはないけれど残念な映画、としようと思う‥‥としようと思うのであるが、このトールキンの世界、まだ未見の方は、一度体験してみることをお勧めしたい。「ホビット」も「ロード・オブ・ザ・リング」も、本来イギリスの児童文学であるが、イギリスの児童文学というのは、簡単に子供向け、と決めつけてはいけない、なかなか侮れないものなのである。

映画   第十七捕虜収容所       ビリー・ワイルダー  監督

第十七捕虜収容所(字幕版)

 

捕虜収容所を描いた映画、と言ってすぐに頭に浮かぶのは、映画「大脱走」であり、スティーブ・マックイーンがバイクをとばして、ドイツ兵から逃走するシーンであるとか、何度も脱走を試みては失敗し、独房にいれられ、独房の壁を相手にキャッチボールするシーンであるとか、お馴染みなのである。今回、語っていくのは、その映画「大脱走」よりも10年前の1953年に制作された、あのロマンティック・コメディーを撮らせたら一級の腕と言ってもよい、ビリー・ワイルダー監督による映画「第十七捕虜収容所」である。

 

同じ捕虜収容所の映画ということもあって、若干似ているシーンもなくはない、映画「大脱走」による、映画「第十七捕虜収容所」へのオマージュとも考えられるかもしれない、とはいえ、映画「大脱走」では、主にイギリス人が集められた収容所の話であるのに対して、映画「第十七捕虜収容所」のほうは、全員、捕虜となっている兵士はアメリカ人、という設定になっている。前者が、収容所の生活よりも、どちらかというと、脱走の準備、脱走のためのトンネル堀など、タイトルが示すとおり、あくまでも “脱走” に重点を置いて撮影されたと思われるのに対して、後者は収容所内で起こる事件、収容所内での生活の描写に重点が置かれている。

 

その ”第十七捕虜収容所“ で事件は起きる、舞台となる収容棟にドイツ軍に内通しているスパイがいる、というところから物語は始まり、収容所内での生活が描かれるのと並行して、このスパイ探しもメインのストーリーとなってくる。若き日のウィリアム・ホールデンがいい役を演じている。映画での最後のスパイ探しのクライマックスでは、ウィリアム・ホールデン、カッコいい、なんて思っていたら、アカデミー賞で主演男優賞を受賞していた、さもありなん。また、若き日のピーター・グレイブスも観ることができる。ピーター・グレイブスと言えばTVドラマ「スパイ大作戦」での、若干、渋さを増したピーター・グレイブスがお馴染みだったので、この映画での、実に若い、ピーター・グレイブスは新鮮であった。

 

ドイツ軍による、捕虜の取り扱いは、ジュネーブ条約にきちんとのっとっているかと言えば、映画の中では必ずしもそうではないのだが、映画のラストのほうでは、収容棟内でのクリスマスパーティーの様子なども描かれる、捕虜収容所内のこととはいえ、アメリカ兵たちは実に楽しそうにクリスマスを祝っていた、捕虜とはいえ、このような自由は許容されていたのだな、と思った。

 

ひるがえって、日本にも、もちろん、戦時中には捕虜収容所があった、第一次世界大戦時にあった、徳島県鳴門市大麻町の捕虜収容所には、ドイツ人の捕虜が収容されていて、かなり自由な生活が認められていたという、その自由な生活の中でドイツ人の捕虜が取り組んだことの一つに、音楽活動があり、彼らが日本で初めてベートーベンの交響曲第九番を演奏したという、地元の住民との交流も深かったようで、戦争が終わってドイツに帰国した後にも、元捕虜と住民の交流があったらしい。

 

日本の捕虜収容所、などと言うと、筆者は、第二次世界大戦中の特高のイメージが強かったので、鳴門市大麻町の捕虜収容所のことを知った時には、日本でも戦争捕虜の取り扱いについては、捕虜の人権を尊重した扱いがなされていたのであったか、と、実は意外感に打たれたのであった。まあ、第一次世界大戦と、第二次世界大戦、という違もあり、大麻町以外の捕虜収容所のことは、詳しいわけでもないので、この収容所については、と付け加えざるを得ないのであるが。

 

さて、映画のほうはどうであるか。映画のストーリーでは、最後は収容所内の事件も無事に解決する、解決するのは良いのだが、筆者は、その解決の仕方に、若干の残酷さを感じてしまった。捕虜収容所の話とはいえ、やはり、戦争を扱った映画であり、戦争における残酷さをこの映画でも避けて通ることはできなかった。まあ、”犯人“ は、その運命を受けるに相応しい残酷なことを当人もしており、当然といえば当然の報いでもあるのだが、目には目を、って感じでした。

 

ラスト、収容棟の窓に、MERRY XMAS の文字が浮かぶ。ビリー・ワイルダーらしいエンディングだと思ったのだが、筆者は、この映画では素直にMERRY XMAS、とお祝いのハッピーな余韻を感じることができなかった、やはり、戦争映画だった、この映画は……面白い映画ではあるんだけれどね。

 

 

 

 

映画 トッツィー       ダスティン・ホフマン  主演:   悪くないけれど残念な映画

トッツィー (字幕版)

 

ダスティン・ホフマンと言ってすぐに思い浮かべる映画は、彼のデビュー作、「卒業」と、トム・クルーズと共演し、障害を持つ兄を演じた「レインマン」であり、前者では2つの新人賞を獲得し、後者においては、アカデミー賞ゴールデングローブ賞で、主演男優賞を獲得している。この二つの映画だけではない、映画「クレイマー・クレイマー」であるとか、映画「真夜中のカーボーイ」であるとか、あげればきりがなく、ダスティン・ホフマの演技のすばらしさを堪能できる映画はある。

 

今回の映画「トッツィー」もまた、上に述べた映画とはまたちがった角度から、ダスティン・ホフマンのうまさを、観ることのできる映画であると感じる。今回、彼は、女になる、つまり、女装して、ドロシー・マイケルズという、ソープオペラのオーデションに合格して、次第に人気者になっていく女性と、マイケル・ドーシーという、その完璧主義のために売れない男優、という一人二役をこなす。見どころは、やはり、女性に扮した、ダスティン・ホフマンの女性ぶりであり、映画全編にわたって、ダスティン・ホフマンの演技のうまさを、ただ、ただ、見せつけられるような映画である。

 

筆者は、この映画を観ながら、ダスティン・ホフマンの演技のうまさに感心しながらも、何故か、これでもか、これでもか、というほどに見せられる、彼の “うまさ” が、少々鼻に着いたりしてしまった。なんというか、もうわかったから、君の演技のうまさは、もう、十分だから‥‥、という感じか。

 

女性としての、ダスティン・ホフマンの演技のうまさは、置いておくとして、映画の初めのあたりで見せられた、ドロシー・マイケルのホフマンは、やはり、多少、体つきも顔つきもごつくて、ちょっと女性にしては無理があるんじゃないか、と、思った、が映画が進行するにつれて、特に、ドロシーが人気者になって、雑誌のグラビア、雑誌の表紙を飾る、とここまでくると、妙に、美しく、女性らしく、元気いっぱいおしゃれな、ドロシーを見せられる、この、雑誌のグラビア撮影の時のドロシーは、確かに、美しかった、本物の女性と思っても自然であるな、と感じた、ダスティン・ホフマン、さすが、というところか。

 

この映画「トッツィー」を観ていて思い出すのは、やはり、日本の歌舞伎の女形であり、女形と言えば、坂東玉三郎であり、女性以上に女性らしく、女性以上に美しく、時に妖艶な女形である、玉三郎玉三郎と元気いっぱい、明るいドロシー・マイケルズのダスティン・ホフマンを単純に比べるわけにもいかないが、同じ、女を演じる男性であっても、東と西ではずいぶん趣も異なるものだな、と思わずにはいられない。

 

また、西洋においても、シェイクスピアの時代には、役者は日本の歌舞伎と同じで、男性の役者しかいなかった時代であった、なので、当然、シェイクスピア劇の女性の役は男性が、少年が、演じていた、男が女装して女を演じる、西洋においても、別だん、特に目新しいことでも、現代的なことでもなく、16世紀の後半から17世紀にかけて、日本の歌舞伎と同じよう、西洋でも行われていた。西洋にも ”女形“ がいたのであろう。

 

さて、では、ストーリーのほうはどうなのか、と思われるかもしれない。ダスティン・ホフマン演じるもう一人の男性のほうの、マイケル・ドーシーは、先ほど、ダスティン・ホフマンの過剰に見せられる演技の “うまさ” が鼻に着いたと書いたが、それと同じく、彼の、完璧主義さがやはり、筆者には少々、鼻に着いた、ちょっとやりすぎじゃないか、など思ったりもする。女装ドロシーによって、引き起こされる数々のエピソードも面白いのだが、やっぱり、どうも、残念ながら、筆者にはドロシーが好きなタイプの女性ではなかった。など、いろいろ、物申したくなる点もあったりする、トータルには面白い映画なのだが、残念である。

 

ということで、この映画、ダスティン・ホフマンのうまい演技を堪能するには、もってこいの映画と言えるのだが、彼の扮するドロシーが、タイプかどうかは意見の分かれるところ。

 

まずは、映画を観てみて、女装したダスティン・ホフマンを堪能してみるのがおすすめ!

 

 

 

映画 「メン・イン・ブラック」/  「メン・イン・ブラック 2」   トミー・リー・ジョーンズ    ウィル・スミス    主演

 

 

メン・イン・ブラック (字幕版)

 

発想が奇想天外すぎて、コミカルすぎて‥‥という人もいるかもしれない、が、エイリアンを扱った映画は星の数ほどあり、この映画「メン・イン・ブラック」と映画「メン・イン・ブラック 2」も地球と地球人とエイリアンを扱った映画として、筆者は痛く気にいっており、映画「メン・イン・ブラック」もいいのだが、どちらかというと筆者は、映画「メン・イン・ブラック 2」のほうが気に入っているのである。

 

まず、トミー・リー・ジョーンズがいい、トミー・リー・ジョーンズと言うと缶コーヒーボスのコマーシャルでおなじみの方も多いいと思うが、映画では地球に住むエイリアンを統括し、エイリアンから地球を守るMIBという組織(Men In Black)の腕利き捜査官を演じている、ボスのコマーシャルでは逆に地球を訪れて地球人を観察しているエイリアンを演じている。そうなのである、映画「メン・イン・ブラック」では、数多くのエイリアンたちが地球で暮らしていて、地球人と共存している、地球人に気づかれないように。仮に、エイリアンが地球で事を起こして、一般の地球人がエイリアンと接触してしまっても ”ピカッ“ と、ひと光浴びれば、目撃したことをすべて忘れてしまうという、実に便利な装置を彼らは携帯している、地球におけるエイリアンの存在を知るのはMIBのメンバーのみとなる。

 

メン・イン・ブラック2 (字幕版)

 

トミー・リー・ジョーンズがいいと書いたが、相棒となるウィル・スミスもいい、二人の掛け合いが面白い、映画「メン・イン・ブラック」では、まだ新入りの駆け出し捜査官であるのだが、「2」では、すっかり腕利きのベテラン捜査官となる、しかし「2」で、トミー・リー・ジョーンズ扮する捜査官Kが復帰すると、そのキャリアの差はやはり歴然となり、途端に、ウィル・スミス演じる捜査官Jが、第一話の映画の新米捜査官のようになってしまうところも面白くていい。

 

この映画はSFであるが、コメディ映画でもある、「2」の冒頭では、トム・クルーズ主演の大ヒット映画「ミッション・インポッシブル」シリーズの元となった、TVドラマ「スパイ大作戦」でおなじみのピーター・グレーブスがピーター・グレーブスとして登場し、なんともチープなつくりの円盤がでてきて、チープな話をするのであるが、この ”チープ“ な映像が映画「メン・イン・ブラック 2」で、事件が起きてストーリが展開していくための発端というか大きな鍵になるのである。筆者はこのピーター・グレーブスが紹介する円盤を観て、アメリカの古い古いTVドラマ「謎の円盤UFO」というSFドラマに出てくる円盤を思い浮かべた、まだ、特撮が初期の初期の頃の、本当におもちゃみたいな円盤なのである。

 

ストーリーは映画「メン・イン・ブラック」でも「2」でも、捜査官KとJが地球を救うためにラストにはエイリアンと対決するという運びになるのであるが、このエイリアンとの対決シーンは、「2」のほうに軍配を上げたいと思う。映画「メン・イン・ブラック」でも、最後にはエイリアンがその正体の全貌を現わしてくるのだが、どうも、その、全貌が、筆者には思っていたほどの迫力と驚愕を感じさせてくれなかった、実に巨大なエイリアンのはずなのであるが、観ていてどうもスケールの大きさを感じられなかった、先ほどからの表現を借りるならば、少々 ”チープ“ である、と感じてしまったのである。果たして、皆さんはどう感じるかは、実際に映画を観てほしい。

 

が、エイリアンと対決しながらも、とぼけたギャグが入ったりして面白い、捜査官KとJがエイリアン相手に使う数々の武器もいい、そんな、少しばかり漫画チックな映画である、が、面白い。SF好きな方ならば、この面白さが分かるのか、それとも、SFに興味のない方にも、通じる面白さなのか? それとも、面白さ通じない?

 

そこのところは、やはり、実際に映画を観て確かめてほしいところである。

大ヒットした、面白い!映画です。

 

 

 映画「64(ロクヨン)」    佐藤浩市 主演 /  横山秀夫 原作

 

64-ロクヨン-前編

 

「64(ロクヨン)」というのはなんの数字か? とまず、最初に思うのではないかと思う。“64” というのは、昭和64年のことであり、天皇崩御のために、わずか7日間しかなかった昭和であり、その7日間に起こった事件がこの小説の核になるところ、この映画の核にもなるストーリーなのである。

 

  筆者は映画も見て、小説も読んだのであるが、思うに、筆者はもしかしたら、映画のほうが小説を越えているのでは、観ているものを引き込む力があったのでは、と思ってしまった。小説ももちろん悪くはないのである、核になる昭和64年の事件、警察とマスコミの攻防、警察内部の抗争、主人公、三上警視の家庭問題、などなど、様々なストーリーが複雑に絡み合って、紡ぎあいながら、物語は展開していくのであるが、筆者が初めてこの小説を読んだ時に感じた感想というのは、事件がなかなか起こらないなあ、というものであって、小説の後半になって、映画ではズバリ、後編であるのだが、とにかく、小説の後半になって、やっと物語が展開し始めたというか、回りだしたというか、そんな感想を抱いた、そこにたどり着くまで、マスコミ、警察内部、もちろん、後半の事件に関連する様々な出来事が起こるのであるが、筆者にとっては、少々長すぎた‥‥と感じてしまったのである。

 

  では、映像のほうはどうなんだ、と問われるであろう、今回の映画「64(ロクヨン)」についていうならば、映像では前半の肝心の事件が起きる前の、いわゆる、前置きをうまく視聴者の関心を惹きつけながら、忘れてはいけないよ、14年前の昭和64年の事件のことも、と、ちゃんとフォローしながら、映画は進んでいく、それに、役者の演技もうまいので、観ていて飽きない、マスコミとの確執も、うまく、映像にして、映画後半につないでいった、と、かなり、筆者は評価しているのである。

 

  警察内部の様子、であるとか、警察の内部事情、などは、筆者はTVドラマ「相棒」のファンであり、TVドラマ「相棒」を頻繁に見ているので、割と、見慣れた映像なのである。こちらは刑事2人の相棒のドラマであるのだが、同時に、或る意味、警察内部の様子もよくわかる、警察ドラマ、とも言えたりする。ただ、三上警視の所属している広報課とこちら ”相棒“ の広報課を比べてみると、かなり、様子の違う広報課が描かれている、もっとも、舞台も前者はD県警、後者は警視庁と、舞台となる場所が異なるのだから当たり前と言えば当たり前。

 

  ただ、今回の映画「64(ロクヨン)」では、刑事ドラマ、警察ドラマ、などでは、とかく、スポットライトを浴びることが少ない、広報課、という部署に、思い切り、スポットライトを浴びさせて、匿名報道か、実名報道か、をめぐって、三上警視とマスコミとのバトルを描いたところに、今までの警察ドラマにはなかった、新しさがあったかとも思われる。だた、匿名か実名かという、三上警視とマスコミのバトルは、先にも書いたこの映画の核となる昭和64年に起きた事件とは、直接には、全くかかわりを持たない。確かに、新しい斬新な切り口ではあるのだが、映画の核心、言い換えると、小説のストーリーの核心、とは直接のかかわりを持たないだけに、小説を読んでいた時には、妙に前半長いなあ、と、筆者が感じてしまった所以ではないのかと思う。

 

64-ロクヨン-後編

 

  では、後半はどうなのか? 後半では、事件は急展開する、もちろん、“64” で起きた事件の真相も解明され、過去と現在で起きている様々な事件の伏線は回収され、手に汗握り、ハラハラ、ドキドキさせられ、食い入るように、と言ったらおおげさかもしれないが、とにかく、時のたつのも忘れて映像を見ることができるのである。TVドラマ「北の国から」で、実にうまい子役であった吉岡秀隆君の警察官役もいい、彼の残した ”幸田メモ“ というのも事件と大きくかかわってくる、また、三浦友和演じる捜査一課長もいい、犯人を追う捜査車両の中で、三上警視を恫喝するところは、実にカッコいい、と思った。そして、もちろん、主役である三上警視、マスコミとのバトル、家庭での苦悩、64事件の犯人を取り逃がしたことへの自責の念…などなど、演ずる佐藤浩市の演技がとてもいいと、思う。

 

やはり、前半、後半、供に、見所のある映画なのである、なので、やはり、この映画、一度は見ても “いい” 映画かな、と思う次第。未見の方は、是非どうぞ。

 

 

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映画 北北西に進路を取れ   ケーリー・グラント 主演/    アルフレッド・ヒッチコック 監督:      悪くないけれど残念な映画

 

 

北北西に進路を取れ(字幕版)

 

ヒッチコックの作品にはヘンリー・フォンダ主演の映画「間違えられた男」という作品もあるのであるが、この映画「北北西に進路を取れ」も、やはり、或る意味 ”間違えられた男“ というのが、ことの始まりであり、前者は実話をもとにしたストーリーであるようだが、後者、ここで取り上げる映画「北北西に進路を取れ」は、フィクションの物語であり、ケーリー・グラント演じる広告会社の重役ソーンヒルが、自分でも気づかない或るちょっとした偶然のいたずらから、スパイのキャプランという男と間違えられてしまい、とんでもない災難と冒険へと駆り出されるという物語である。

 

まず、冒頭の ”間違えられ方” がうまい、さりげなく、ごくごく自然な成り行き、これではちょっと防ぎようがない、というくらいの偶然性、ソーンヒルは実に災難、運が悪い、と言わざるを得ない。どこのどんなシーンであるかは、映画を観て確かめてほしい。この映画の見せ場はいくつもあるのだが、やはり、シカゴの郊外の広大な平原で、軽飛行機に襲われ銃撃までされるというシーン、銃撃の迫力は今一つと感じるのだが、飛行機を背にして、ソーンヒルが走る、有名なシーンはやはり迫力があり、迫力には今一つだと思った銃撃シーンも、あのシーンで機関銃を乱射するのは、あの道路が一般の車やトラックも時には通行するということを考えるならば、あのくらいの銃撃が限度であったか、とうなずけたりもする。

 

やはり、ハラハラドキドキして面白くなってくるのは、後半、ソーンヒルが恋に落ちる謎の女性の正体が明らかにされてからの展開であり、ソーンヒルによる自身のイニシャル入りマッチの使い方であるとか、これも秀逸だと感じる、また、ラストのサウスダコタ州のラシュモア山国立記念公園の岩に刻まれた巨大な大統領の顔での、逃亡、対決シーンであり、こういったところは、さすがヒッチコック、と思わずにはいられないサスペンスであった。

 

が、しかし、映画全編を通して、この謎の女性や、彼女を支援している教授、と呼ばれる男性が一体全体何という組織に所属しているかは明かされない、FBIでもCIAでもいいのだが、ヒッチコックはそこのところははっきりさせない、そんなところが、なんとなく、リアリティに欠け、サスペンス感を若干そぐような気がしてならない。さらに、この映画は主人公ソーンヒルと謎の女性が恋に落ちないとどうにも展開していかないストーリであるのだが、その肝心ともいえる出会い、親しくなっていく過程、がどうも不自然、唐突感が否めず、その点において、映画に感情移入していくことを妨げる。

 

舞台はニューヨークからシカゴへ、シカゴからサウスダコタへ、と移動してゆく、タイトルにでてくる ”北北西“ という方角とは何の関係もない舞台の移動、 ”North by northwest” という方位は実際には存在しないという。ある説によると、このタイトルはシェイクスピア戯曲「ハムレット」の一節からきているのではないか、と言われているようだ、曰く ”私は北北西の風の時に限って理性を失ってしまう。( I am but mad north-moth-west …….)”と。確かに、主人公ソーンヒルは理性を失ったかのように、謎の女性に恋をして、理性を失ったかのように、彼女のために命を懸けて、危険の真っただ中に飛んでゆく、可能性としては、一番ありそうな説であるな、と筆者は感じる。

 

そんなこんなで、みどころは数ある、面白いサスペンス映画なのであるが、先に触れたいくつかの点は残念であり、ゆえに、悪くないけれど残念な映画としたい。この主人公、謎の女性と出会う前にも、酒を無理やり飲まされ、ベロンベロンに酔っぱらい、理性もなくして、今にも車ごと海に落とされて命を落とすところであった、やはりこの映画、サスペンス溢れるスパイ映画であると同時に、”理性をなくした“ 男が、恋する女性のため、危険に突き進み、恋を成熟させる、といった映画としてみるのも、ありかもしれないと思うのでした。