Kororon 映画について語るBlog

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映画 トッツィー       ダスティン・ホフマン  主演:   悪くないけれど残念な映画

トッツィー (字幕版)

 

ダスティン・ホフマンと言ってすぐに思い浮かべる映画は、彼のデビュー作、「卒業」と、トム・クルーズと共演し、障害を持つ兄を演じた「レインマン」であり、前者では2つの新人賞を獲得し、後者においては、アカデミー賞ゴールデングローブ賞で、主演男優賞を獲得している。この二つの映画だけではない、映画「クレイマー・クレイマー」であるとか、映画「真夜中のカーボーイ」であるとか、あげればきりがなく、ダスティン・ホフマの演技のすばらしさを堪能できる映画はある。

 

今回の映画「トッツィー」もまた、上に述べた映画とはまたちがった角度から、ダスティン・ホフマンのうまさを、観ることのできる映画であると感じる。今回、彼は、女になる、つまり、女装して、ドロシー・マイケルズという、ソープオペラのオーデションに合格して、次第に人気者になっていく女性と、マイケル・ドーシーという、その完璧主義のために売れない男優、という一人二役をこなす。見どころは、やはり、女性に扮した、ダスティン・ホフマンの女性ぶりであり、映画全編にわたって、ダスティン・ホフマンの演技のうまさを、ただ、ただ、見せつけられるような映画である。

 

筆者は、この映画を観ながら、ダスティン・ホフマンの演技のうまさに感心しながらも、何故か、これでもか、これでもか、というほどに見せられる、彼の “うまさ” が、少々鼻に着いたりしてしまった。なんというか、もうわかったから、君の演技のうまさは、もう、十分だから‥‥、という感じか。

 

女性としての、ダスティン・ホフマンの演技のうまさは、置いておくとして、映画の初めのあたりで見せられた、ドロシー・マイケルのホフマンは、やはり、多少、体つきも顔つきもごつくて、ちょっと女性にしては無理があるんじゃないか、と、思った、が映画が進行するにつれて、特に、ドロシーが人気者になって、雑誌のグラビア、雑誌の表紙を飾る、とここまでくると、妙に、美しく、女性らしく、元気いっぱいおしゃれな、ドロシーを見せられる、この、雑誌のグラビア撮影の時のドロシーは、確かに、美しかった、本物の女性と思っても自然であるな、と感じた、ダスティン・ホフマン、さすが、というところか。

 

この映画「トッツィー」を観ていて思い出すのは、やはり、日本の歌舞伎の女形であり、女形と言えば、坂東玉三郎であり、女性以上に女性らしく、女性以上に美しく、時に妖艶な女形である、玉三郎玉三郎と元気いっぱい、明るいドロシー・マイケルズのダスティン・ホフマンを単純に比べるわけにもいかないが、同じ、女を演じる男性であっても、東と西ではずいぶん趣も異なるものだな、と思わずにはいられない。

 

また、西洋においても、シェイクスピアの時代には、役者は日本の歌舞伎と同じで、男性の役者しかいなかった時代であった、なので、当然、シェイクスピア劇の女性の役は男性が、少年が、演じていた、男が女装して女を演じる、西洋においても、別だん、特に目新しいことでも、現代的なことでもなく、16世紀の後半から17世紀にかけて、日本の歌舞伎と同じよう、西洋でも行われていた。西洋にも ”女形“ がいたのであろう。

 

さて、では、ストーリーのほうはどうなのか、と思われるかもしれない。ダスティン・ホフマン演じるもう一人の男性のほうの、マイケル・ドーシーは、先ほど、ダスティン・ホフマンの過剰に見せられる演技の “うまさ” が鼻に着いたと書いたが、それと同じく、彼の、完璧主義さがやはり、筆者には少々、鼻に着いた、ちょっとやりすぎじゃないか、など思ったりもする。女装ドロシーによって、引き起こされる数々のエピソードも面白いのだが、やっぱり、どうも、残念ながら、筆者にはドロシーが好きなタイプの女性ではなかった。など、いろいろ、物申したくなる点もあったりする、トータルには面白い映画なのだが、残念である。

 

ということで、この映画、ダスティン・ホフマンのうまい演技を堪能するには、もってこいの映画と言えるのだが、彼の扮するドロシーが、タイプかどうかは意見の分かれるところ。

 

まずは、映画を観てみて、女装したダスティン・ホフマンを堪能してみるのがおすすめ!