Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画 インファナル・アフェア    トニー・レオン/   アンディ・ラウ   主演

 

 

インファナル・アフェア [DVD]

 

 

タイトルの「インファナル・アフェア」というのは、英語で書くと、Infernal Affairs となり、Infernalは ”地獄の” であるとか “悪魔の” といった意味の形容詞であり、Affairs というのは “事柄” とか ”仕事“ といった意味であり、直訳すると ”地獄のような仕事“ となる、また、原題は「無間道」であり、”無間道“ とは ”仏教でいう無間地獄のことで、一度はいると抜け出せない、絶え間なく続く苦しみ“ のことであるという。映画はタイトルからしてシリアスであり、映画を鑑賞した後も、何かずっしり暗い雰囲気に包まれる感覚にとらわれる、大ヒットした香港映画であり、ハリウッドでリメイク版も作られている。

 

では、一度足を突っ込むと抜け出せなくなる地獄のような仕事とはいったい何か、と問われれば、それはここでは ”潜入捜査“ というものであり、映画では、マフィアに潜入した警察の潜入捜査官と、ここがこの映画の優れたところだと思うのだが、警察の捜査官とは真逆に、マフィアから警察に潜入し、警察官として周囲を欺いている ”潜入者“ も登場し、この二人が主役となり、手に汗握り、ハラハラドキドキのストーリーが展開することとなる。

 

トニー・レオン演じる警察官ヤンは10年という長い年月、潜入捜査官として働いている、潜入捜査官というのは、自身の生活と潜入した人物になりきった生活との二重生活を送らなくてはいけないという点において、かなりのストレスを感じ、任務が終了した後も普通の生活に戻ることに困難を伴う場合もあるという。劇中の潜入捜査官ヤンも10年という年月の潜入の結果、精神的に異常をきたしてきたのか、精神分析医の元に通っている、精神分析医は美人の女医、もっとも、マフィア仲間にはマッサージ、といっているようだが。

 

一方、アンディ・ラウ演じる、警察官として警察に潜入しているマフィアの一員、ラウもヤンと同じく10年にわたって警察官として偽りの生活を送っている、10年という長い年月警察官としての職務を果たしてきたラウには、どういうわけか良心の芽生えが起こり、ヤンと協力して、彼自身の親分でもあるサムを追い詰め、サムの呪縛から逃れようとする。が、悲しいかな、マフィアはマフィアのやり方でしか芽生えた良心に従うことができず、ここら辺がラウにとっての ”無間道“、”一度はいると抜け出せない地獄“ となる。この映画「インファナル・アフェア」では、ラウの精神の変調はそれほどみられないのだが、続編の映画「インファナル・アフェアIII」では、ラウの精神錯乱は彼を破滅へと追い込むほど。

 

そんな主人公二人以外で、この映画の見どころと言えば、マフィアの麻薬取引を阻止してサムを逮捕すべく、マフィアを追い詰めていく警察の作戦展開とマフィアの攻防、モールス信号を使っての警察とマフィアとの攻防は、まさに手に汗握る、何回かそんなシーンはあるのだが、冒頭の麻薬取引シーンの攻防は最高。

 

香港では、ジャッキー・チェンアンディ・ラウの2人、そして、レオン・ライとアーロン・クオックの2人を、合わせて香港四天王というらしい、ジャッキー・チェンはあまりにも日本でも有名、香港映画に特に興味のない方でも、映画ファンであればジャッキー・チェンの名前を聞いたことはあろう、筆者は昔、香港を旅行した時、ガイドさんにジャッキー・チェンの経営している店、と言われて鞄屋さんに連れていかれたことがある、バックを買ってしまったけれど……日本人の香港観光コースに入るくらい、ジャッキー・チェンという俳優は日本では有名だった。

 

 

           ↓ ジャッキー・チェン

ポリス・ストーリー3(吹替版) 

 

残念ながら、筆者は香港四天王の内の後者2人、レオン・ライ、アーロン・クオックを知らなかった、辛うじて、レオン・ライは映画「インファナル・アフェアIII」で、ヤンの同期のエリート保安部の警官を演じていて、ああ、あの俳優か、とおぼえがあったくらいである。おそらく、たいていの映画ファンも、筆者と同じ程度の認識ではなかろうか、特別に熱狂的香港映画ファンでもない限り。筆者としては、彼らの代わりにこの映画の主人公でもある、トニー・レオンと、映画「さらば、わが愛 覇王別姫」や「ブエノスアイレス」などでおなじみの、レスリー・チャンを香港四天王としたいと思ってしまう。

 

 

 ↓  レスリー・チャン

さらば、わが愛 覇王別姫(字幕版)

 

                   

 

この映画で ”無間道“ に入ってしまったのは、アンディ・ラウ演じるラウというよりも、やはり、トニー・レオン演じるヤン、であり、10年余りもの歳月、警察とマフィアという二重生活を送っている精神的 ”地獄“ を見せられて、最初に戻るが、映画を観終わった後、何かずっしりと思い感情にとらわれるのである、ラウが ”無間道“ に陥るのを見るには、映画「インファナル・アフェアIII」を待たなくてはならない。

 

大ヒットした映画である、潜入捜査官の苦悩と警察とマフィアのスリリングな攻防をこの映画で味わってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

映画  真珠の耳飾りの少女        スカーレット・ヨハンソン  主演  

 

真珠の耳飾りの少女 (字幕版)

 

 

 

17世紀のオランダにフェルメールという画家がいた、代表作 ”真珠の耳飾りの少女“ という絵画があり、光と影を巧みに自身の作品に取り入れたことで有名であり、鮮やかなブルーのターバンを頭に巻き、左の肩越しに振り返り、こちらを見ている、その左の耳元で大粒の真珠が光る‥‥そんな絵画である。17世紀はオランダにとっては黄金時代と言われている平和の時代であり、日本では江戸時代の初め頃、ポルトガルやオランダから宣教師や商人が日本を訪れていた時代でもあり、日本が江戸の鎖国時代に唯一、貿易をしていた国でもある。映画「真珠の耳飾りの少女」は、そんな時代に、オランダ人画家フェルメールが ”真珠の耳飾りの少女“ の絵を描きあげるまでのストーリを綴った映画である。

 

この映画は絵画に興味があり、フェルメールを知っていて、又、フェルメールのファンであるならば楽しめるだろうが、絵画に興味のないものには、ちょっととっつきにくい映画なんじゃないのか、と思うのであったら、それは間違いであり、絵画に特別興味のない方であっても、この映画は十分楽しめる映画であり、絵画に興味がないからと言ってこの映画を観ないのは、筆者がインド映画に興味がなかったから、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」を20年以上も観ずにいた、というのとまったく同じ間違いであり、せっかくの良質で面白い映画を知らずにいて、もったいないことをしている、と言いたい。

 

真珠の耳飾りの少女“ の絵は、フランスのルーブル美術館に収まっている、レオナルド・ダ・ヴィンチの、かの有名な”モナ・リザ“ の絵との引き合いに出され、”北のモナ・リザ“ ”オランダのモナ・リザ“ と言われる、少女がわずかに微笑んでいることが理由らしい。この絵画のモデルになった少女は誰なのだ、ということは今でも謎であり、フェルメールの娘か、妻か、恋人か、それとも彼が創作した空想上の少女なのか、といろいろ諸説があるようだ、映画ではフェルメールの屋敷に雇われている小間使いの少女がモデル、という設定だ、彼女はフェルメールの恋人、とまではいかないが、お互いに絵画を理解しあう同志、みたいな好意を感じあっている。

 

フェルメールは絵画の鬼、彼は小間使いの少女の中に、絵画のモデルたりうるひらめきを見た瞬間から、少女とアトリエにこもり、ひたすら絵の完成を目指す、奥さんの真珠の耳飾りを少女につけさせたのも、フェルメールの絵画に対する、或る意味狂気じみた熱中と創作意欲からであろう、と考える。そんな二人にフェルメールの奥さんは嫉妬して、ついには狂乱状態になる‥‥。

 

 

#10 オランダ・ベルギー・ルクセンブルク ベネルクス3国縦断の旅

 

オランダといえば、色とりどりのチューリップの花だの、風車だの、海面より低い国土だの、一部薬物が解禁されている国だの…すぐにイメージされるところか、国土の広さは大体、日本の九州くらいだ、映画「真珠の耳飾りの少女」では、そんなオランダの17世紀の街の様子や、庶民、貴族の暮らしぶりを垣間見ることができる。主人公で、絵のモデル、グリードは、肉屋の倅と恋に落ちるのだが、その肉屋の描写、なかなか、豚の切り落とされた頭がやまずみになっているところであるとか、割と血まみれになりながら、客に肉を切り分けてやるところとか、市場で、動物がつるされているシーンとか、切り落とされた豚の頭というと、沖縄の豚の頭の燻製がすぐに思い浮かぶが、そんな可愛いものではない、生の血まみれの豚の頭がやまずみ……。

 

家計を握っている義理の母もいい、フェルメールの絵を完成させるために真珠の耳飾りを調達したのも義理の母だった、パトロンも見つけてくるし、婿の才能をセールスすることには抜かりがない、フェルメールの生涯のパトロンとなるライフェンもラスト、完成された “真珠の耳飾りの少女” の絵を見て、動けずにいる、その理由は、絵のすばらしさに感動して釘付けになったとか、フェルメールの天才に驚愕したためであるとか想像できる、何しろその後、生涯のパトロンですから。

 

フェルメールとモデルで小間使いのグリードの関係はどうなるのか? それは映画を観てほしい、が、フェルメールには実際15人もの子供がいた、という事実を考える時、フェルメールというのは、やはり、愛妻家で、奥さんのことは奥さんとして、芸術とは切り離してしっかり愛していたのだろう、と思ってしまったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

映画 ジョン・ウィック:チャプター2     キアヌ・リーヴス   主演

ジョン・ウィック:チャプター2(字幕版)

 

 

キアヌ・リーヴス演じるジョン・ウィックが暴れまわる映画第二弾「ジョン・ウィック:チャプター2」で、第一作目と同様に、ジョン・ウィックが拳銃を片手に、今回は2時間近くにわたって、殺戮しまくるという、実に血なまぐさい映画なのであるが、映画はヒットしたようで、第一作目を上回る興行成績を記録したという。筆者も、拳銃、ナイフ、素手などによる殺戮オンパレードのこの映画、にもかかわらず、ついつい最後まで見てしまった、一体この映画、どこがそんなに面白いのか、今回は、映画「ジョン・ウィック:チャプター2」のそんな観客を惹きつけるポイントみたいなことを、語っていきたいと思う。

 

第一作目でジョン・ウィックが復讐の鬼と化してその殺戮を始めたのは、前回も書いたように愛犬を殺されて、愛車を壊された、というのが理由だった、たかが、と言ったら悪いが、しかし、それしきの理由で、あれほどまでの復讐をするのか、という展開に驚くと同時に、苦笑いも禁じ得なかった。今回、ジョン・ウィックは再び復讐の鬼と化し、引退したはずの殺し屋へと舞い戻っていくのであるが、今回は、前回よりは、観ている観客をうなずかせてくれる理由が用意されている、そのおかげもあってか、ストーリ的にも前回よりは、一本筋が通ったような気がする、前回同様殺戮は十分すぎるほど見せられるのだが、ジョン・ウィックが復讐に走る理由が多少、観ている観客を説得できるところに、まず前回との違があると考える。

 

続いて、前回も面白かった、コンチネンタル・ホテル・ニューヨーク。今回は、さらに、このホテルの掟及び、裏社会の掟や、裏社会の様子が映画の中で描かれる、この裏社会の掟が、今回、ジョン・ウィックが再び殺し屋に復帰する原因ともなる。この裏社会の殺し屋たちの世界が面白い、ニューヨークにはこんなにたくさんの殺し屋が潜んでいたのか、とか、殺し屋の世界もこんなにシステマチックであり、かつ、厳しいルールがあったのか、であるとか。本当に、映画の中では、ニューヨークの町は殺し屋だらけであった。

 

ニューヨークの町の中で、地下鉄の中で、殺し屋たちがバトルを繰り広げ、銃弾飛び交い、死人も山ほど出ていても、市民はあわてず騒がず、我関せず、日常茶飯事の子供の喧嘩を観ているように、平然としている、という描かれ方も笑いを誘う、特に地下鉄でのシーンなんかは、乗客、普通は逃げるだろう、少なくとも車両ぐらい変えるんじゃないかな、とか、車掌を呼ぶだろうとか、一切しない、ありえないよ感、たっぷりのところがいい。念のために書き添えると、この映画では、警察官は一切出てこない、少なくとも職務に忠実な警察官は、こんなところも面白い、あれだけ、殺し合いが行われているのに。

 

主人公、ジョン・ウィックは殺し屋であるので、武器、特に、銃器の扱い、性質、特質に精通している、武器を選定しているときの、彼のプロフェッショナルさ、であるとか、彼を狙う殺し屋とのバトルでの武器の扱い方や戦い方の凄さ、とか、こんなところも、他の映画に出てくる殺し屋とは違うところか、先にも書いたが、結局この映画では、警察官も一般の人々も映画のセットの一部にすぎず、ヒットマンヒットマンの世界、とその ”仕事ぶり“(?)のみをひたすら観客に見せる映画、そんなところが、この映画を他の同ジャンルの映画と差別化して、ヒットさせた要因か。

 

そんなジョン・ウィックであるのだが、前作同様、今回も彼の愛犬が登場し、彼になついて付き従い、彼と一緒に逃げる、可愛い犬なのだ、そして、コンチネンタル・ホテル・ニューヨークのコンシェルジェとの関係だけは、この映画にあって妙に人間的でもある、いい関係が描かれる、この映画を観ていて唯一ホッとできるシーン。

特に愛犬と一緒のジョン・ウィックは、これはまた、監督のギャグなのか、と思ったりする。

 

今回の映画「ジョン・ウィック:チャプター2」でも、前作同様、最初から最後まで映画では,これでもかというほどの殺し合いを見せられることになる、では、何故、この映画を観たのか? と問われれば、それは、キアヌ・リーヴス主演だから、と筆者は答える、キアヌのこのめちゃくちゃ感、彼のもう一つの代表作、映画「マトリックス」よりもハマっている役どころではないか。普通なら死んでいるだろう、と思えるところも、無敵、不死身のジョン・ウィックは敵をバッタ、バッタと倒していく、そういった、変な爽快感もジョン・ウィックが観客を惹きつける彼の魅力か、主人公に魅力がなければ、映画は成功しないだろう。

 

血なまぐさい、殺し合いの映画は観たくないという方にはお勧めしないが、キアヌ・リーヴスファンである筆者は、スクリーンから目をそむけたくなるようなシーンもなくはなかったが、キアヌ見たさに、観ました、映画「ジョン・ウィック:チャプター2」。

 

ヒットした映画である、キアヌファンの方はもちろん、興味を感じた方は、観てみるのも悪くないかも。

 

 

 

 

映画   ダーティーハリー5   クリント・イーストウッド  主演

ダーティハリー5(字幕版)

 

ダーティーハリーシリーズの最後を飾る第五作目、1988年製作であり、第一作目の「ダーティーハリー」が1971年製作であるから、足掛け10年以上もかけて完結したといえようか、第一作目から10年以上も経過しているとなると、主役のクリント・イーストウッド演じるハリー・キャラハン刑事も、当然ながら、ずいぶんお年を召されたかな、という印象をまず感じるが、マグナム44は容赦なく火を噴き、悪人を許すことなく、厳しい制裁を加えていくところは、相変わらずである。ただ、シリーズ最後の犯人をしとめるのは、このマグナム44ではなく、別の武器となる、それは何か、さっそくだが、やっぱり映画を観て確かめよう。

 

相変わらず容赦なく火を噴くマグナム44ではあるのだが、10年という歳月を経て、キャラハン刑事も多少角が取れたか、映画の始まり当初はともかく、映画中盤ともなると、女性ジャーナリストとデートして、まんざらでもなく、女性に優しい、キャラハン刑事を見ることができる。どうも「ダーティーハリー3」で女刑事の相棒を持ったあたりから、「ダーティーハリー4」をへて、キャラハン刑事と女性が絡むシーンも多くなり、ついに最終回「ダーティーハリー5」では、女性には紳士的であるキャラハン刑事の姿を見ることとなる。

 

今回も単独行動していたキャラハン刑事に相棒が付くことになるのだが、今回はアジア系相棒、アル・クアン刑事。映画によると中国系アメリカ人の刑事という設定である。白人の相棒、黒人の相棒、女性の相棒、と人種とジェンター関係の相棒がそれぞれでてきて、次は人種関係でもう一つ、アジア系相棒、ということか。キャラハン刑事の上司いわく“中国系アメリカ人の相棒であると警察のイメージアップになる” ということだ、なんだか、「ダーティーハリー3」で女性刑事を相棒にしたときの上司のセリフとたいして変わりがないのでは。そして、今回の、この相棒もこれまでのキャラハン刑事の相棒の例にもれず、その運命は想像するとおり、果たして命を落とすのかどうか、これもまた、映画を観て確かめよう。

 

今回は珍しく、キャラハン刑事が体を鍛えているシーンがいくつか登場する、相棒と一緒にウェイトトレーニングをしている、もっともこの時キャラハン刑事はウェイトではなく、トレーニングしている女性に見とれてしまうのだが、次に、ボクシングの練習、ジョギングしているところ、と、鍛えているなあ、というところを見せる、劇中にもキャラハン刑事がマグナム44に火を噴かせるのではなく、素手でもって相手をボコボコにするシーン、犯人から、とにかく走って逃げるシーンなどなど、トレーニングの成果がでているな、と思わせるシーンはある。

 

また、警察や上司とキャラハン刑事の関係も、多少ギクシャクするところはファンへのサービスか、劇中多少、描かれるのだが、今回は、キャラハン刑事が警察のイメージアップに一役買っている、であるとか、警察や上司とキャラハン刑事の関係はそれほど険悪になることもなく、キャラハン刑事も余計な横やりを入れられることなく捜査に打ち込める、といったところ、こんな描写も10年の歳月を感じさせるところと言えなくもない。

 

とはいえ、シリーズ5作目にしてなお、キャラハン刑事健在であり、相棒と違って、キャラハン刑事にあっては、犯人は生きて刑務所に入ることなく、マグナム44の弾丸の前に倒れるという運命にある。映画「ダーティーハリー5」は面白い、ダーティーハリーシリーズは5作あれど、どれも外すことなく面白い。というところが素晴らしいところであり、脚本ももちろんいいのだろうが、主役ハリー・キャラハン刑事の魅力と演じるクリント・イーストウッドの魅力も大きくその人気に貢献していることは間違いない。

 

映画「ダーティーハリー シリーズ」は1作目から5作目まで、やっぱり、すべて見ることをお勧めしたい、ダーティーハリーの魅力、わかるかなあ。

 

 

 

 

 

 

映画  ムトゥ 踊るマハラジャ    ラジニカーント 主演

『ムトゥ踊るマハラジャ』5.1chデジタルリマスター版(字幕版)

 

インドの映画である、この映画が公開された当時、20年以上も前の話だが、この映画がヒットして人気を博していることは知っていた、この映画を観た人が、面白い!と絶賛していた、が、当時、インド映画、ということで、筆者にはあまりになじみなく、映画宣伝のポスターなどから、サリーを着てダンスを踊りまくる、ミュージカル的インド映画、という先入観にとらわれて、残念ながら、この映画を観ずにいた。そんな映画だったが、“面白いんだよ” という観た人の感想がどこかに引っかかっていて、20年以上たった今、いまさらながら、観てみようかな、なんて思ったりして、結局、観てしまった。

 

それで、感想は?と問われれば、面白かったよ!と筆者は答える、そう、映画「ムトゥ踊るマハラジャ」は面白い映画だった。ミュージカル映画ではないのだが、主人公ムトゥの歌と、ダンスが、劇中ところどころ顔を出す、その歌で同じ歌詞を繰り返し、繰り返し歌う、そこが実はよかった。劇中の歌のいいところは、歌詞がシンプルであるということ、どの歌も、字幕を見る限り、シンプルなフレーズで、インドのタミル語でしゃべり、歌うのである。同じフレーズと歌詞の繰り返しである、ちんぷんかんぷんのタミル語の歌であっても、観ているほうにはテンポがよく、ダンサーたちの熱気とエネルギーが伝わってくる、映画のテンポの速い流れを感じることができるのは、観ているほうには気持ちがいい。

 

ダンスもいい、ハリウッドのミュージカル、ブロードウェイのミュージカルとは一味違った、キレッ、キレッのインド的ダンスなのである、振り付けはシャープ、ダンサーの動きもシャープ、マイケル・ジャクソンの “スリラー” にも引けをとらぬパフォーマンスだ、と筆者は称賛したい。

 

ストーリーもいい、ムトゥとご主人様をめぐる話、ムトゥの生い立ちをめぐる話、誤解にすれ違い、さらにまた誤解にすれ違い、を繰り返し、クライマックスへ。また、荒唐無稽な数々のアクションシーンもいい、スローモーションも組み込まれ、絶対的強さを誇るムトゥが爽快でかつ、気持ちがいい、こんなアクションシーンも面白い、インド映画やるなあと、映画に釘付けにされるところ。

 

この映画の本来のタイトルは「ムトゥ」であった、日本で公開されるにあたって ”ムトゥ“ の後に “踊るマハラジャ” という一言が加わった、”ムトゥ“ はこの映画の主人公の名前であるので、映画のタイトルとなるのもさもありなんで、何ら不思議はない、思うに、日本でヒットさせるにあたっては ”ムトゥ“ だけではインパクトが弱かったので ”踊るマハラジャ“ と付け加えたのか。 映画のポスターを観ても、主人公のムトゥをイメージさせるものは何もない。一方、”マハラジャ“ というのは本来サンスクリット語で ”偉大な王“ ”高位の王“ という意味であるので、”踊るマハラジャ“ というのは映画の内容を言い当てている。

 

80年代バブルのころに大ブレイクしていたディスコ ”マハラジャ“ というのがある、お立ち台なるものの上で女性たちが踊りまくる、というイメージが一番強い、現在も復活して六本木で営業中の高級ディスコである。筆者がこの映画のタイトル ”踊るマハラジャ“ と聞いて一番にイメージしたのは、この高級ディスコ ”マハラジャ“ であった、実際に映画を観てみると、ディスコマハラジャに勝るとも劣らないキレッ、キレッのパフォーマンスを見ることができた、おそらくこのタイトルは、そんな宣伝効果も狙って、日本になじみの薄かったインド映画に強烈なインパクトを与えるためのネーミングでもあったのではないか、と、筆者は勝手に想像する。

 

筆者は当初、インド映画と聞いてあまりのなじみのなさに、若干引いてしまった、ムトゥが主人公の名前だともわからなかった、これからこの映画を観ようと考えている方々には、どうぞそんなことのないように心から祈っている、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」は面白い!ずいぶん遅まきながら、筆者もその面白さを堪能できてうれしく思う、お勧めの映画です。

 

 

映画 市民ケーン  オーソン・ウェルズ 主演 /    オーソン・ウェルズ 監督         : 悪くないけれど残念な映画

 

 

市民ケーン Blu-ray

 

 

 

オーソン・ウェルズの監督デビュー作品でもあり、“世界映画史上のベストワンとして高く評価されている” 映画、とも言われている。さらに、オーソン・ウェルズ演じる新聞王ケーンは、実在するウィリアム・ランドルフ・ハーストという人物をモデルにしており、彼は実際に ”新聞王“ と呼ばれていたという、そのため、この実在する新聞王ハーストによって、映画「市民ケーン」は上映妨害運動が展開され、アカデミー賞にも9部門でノミネートされていたのに、実際、受賞したのは脚本賞だけ、という。ハーストという人は自分がモデルにされたことに、ずいぶん激怒した、と想像できる。

 

では、実際の内容はどうなのか、モデルにされた本人が、上映妨害したくなるような、そんな内容なのか。映画の前半は、養子に出され、25歳になって莫大な財産を相続したケーンが、新聞社の経営をはじめ、大成功をおさめ、人生の勢いに乗り、大統領の姪と結婚までして、ついには、ニューヨーク州知事を目指し、州知事選に打ってでる、という活躍ぶり、そんなケーンの成功ぶりを、どちらかというと、明るく、活発に描いているのが前半だ、映画なので、多少大袈裟に脚色された部分も無きにしもあらずだったかもしれない、が、モデルにされた人物が映画の上映を妨害したくなるような描かれ方では決してなかったと思う。

 

では実在のモデルが、上映妨害したくなるほど気に入らなかったのは映画の後半か、映画の後半では、愛人のいることがライバルにばれて、それをネタに脅されて選挙に負ける、そのせいもあり、大統領の娘の奥さんとは離婚に追い込まれる、オペラ歌手を目指していた、元愛人だった新しい妻のために、ずいぶん立派なオペラハウスを作ってやるのだが、奥さんのオペラ歌手としての実力不足のために、周囲の者からは笑われる、とうとうニューヨークから脱出、郊外に巨大な屋敷を建てるも、使用人とケーンと奥さんだけという、超巨大な屋敷にたった二人だけの生活、耐えきれなくなった奥さんには出ていかれる‥‥と散々な目に合う、巨万の富があっても、金だけでは幸せになれない、という見本のような生き方である。おそらく、こういった映画後半のケーンの描かれ方が、実在の本人には我慢ならなかったところではないのか、と筆者は考える。

 

この映画では “Rosebud (バラのつぼみ)” という言葉が、最後まで謎として、登場する、ケーンが死の間際につぶやいたこの言葉は何を意味するのか、と。何を意味しているのかは映画を最後まで見てほしい。映画「市民ケーン」と言えば “Rosebud (バラのつぼみ)” といって、映画好きならば、だれもがすぐに連想できるほどの有名なセリフであり、人気シリーズであったTVドラマ「刑事コロンボ」の中の「攻撃命令」という回でもこの言葉はでてきて、この言葉はドラマの中ではかなり重要な鍵となっている。もしかしたら、この “Rosebud(バラのつぼみ)” の秘密が、実在の新聞王ハーストは気に入らなかったのだろうか、センチメンタルすぎる、とか、触れてほしくない琴線にはからずも触れてしまったとか…、これは筆者の勝手な想像ですが。

 

確かに、この映画で ”Rosebud(バラのつぼみ)“ の秘密は意外だった、が、ストーリーは後半の郊外に建築した邸宅のあたりまでくると、人間的な凋落ぶりに、ケーンに憐れみすら感じてしまう、だれもがうらやむ億万長者なのに。結局、お金じゃないよ、お金があっても幸せになれるとは限らないよ、お金ですべての夢がかなうわけではないよ、大切なものはほかにある…という、素朴な真実を訴えたかったのか。

 

というわけで、最初にも書いたように、この映画が “映画史上のベストワンとして高く評価されている” にもかからず、上映妨害にあって、アカデミー賞9部門ノミネートされたけれど、一部門のみの受賞にとどまったという事実をもってして、ストーリー的にも、劇中で試みられている、素晴らしいざまざまなテクニカル的にも “悪くはなかった” のだけれど、 ”残念な映画”  にしたいと思う。

映画  三つ数えろ   ハンフリー・ボガート 主演

 

 

三つ数えろ [DVD]

 

レイモンド・チャンドラーの生み出した探偵フィリップ・マーロウと言えば、もう、ハードボイルドの代名詞ともいえる有名な探偵であるが、今回、ハンフリー・ボガートがこのフィリップ・マーロウを演じ、先に紹介した映画「マルタの鷹」の探偵サム・スペードに続いて、男の中の男(?)、堅ゆで卵のハード・ボイルドを演じて魅せてくれる。今回は、マーロウの相手は謎に満ちた美しいお嬢さんを演じるローレン・バコール、ボガードとバコールが結婚していたというのは知らなかった。

 

大富豪のわがままいっぱいに育った姉妹、妹の方がある事件のためにゆすられていて、それを何とかしてくれという大富豪からの依頼、依頼を受けてゆすり相手の古本屋を訪ねるところから事件に巻き込まれていくマーロウ、ストーリーは面白い、姉のほうもいわくありげで一筋縄ではいかず、事件は事件を生み、ストーリーはこんがらがって、この映画もしっかり見ていないと、わけがわからなくなってしまうかな、という感じ。

 

この映画「三つ数えろ」にも、見せ場はいろいろあるのだが、筆者はこんなシーンを気に入っている、ゆすり相手の古本屋の向かいにもう一軒古本屋が、その向かいの古本屋の店員のお嬢さんとお酒を酌み交わしてのやり取り、眼鏡をとって髪を下した彼女に向かって、マーロウが一言、「みちがえたな。」この時、英語では「Hello」と言っているのだが、この時のいい方、アルファベット “o” にアクセントを置いて、彼女と目と目を合わせ、ハスキーな声で ”Hello“ といった。こういった ”Hello“ の使い方というか、言い方、面白かった、ストーリ展開とは全く関係のないこんなシーンにも、筆者は興味を感じたりしてしまう、ちょっと、粋なシーン。

 

もう一つは、やはりラスト、最初に死体が転がっていた屋敷で犯人と対決をする、この時の決着の付け方、うまかった、犯人の企みを見破っていてそれを逆手にとっての勝負、女性の扱いだけではなく、頭のほうも冴えに冴えているフィリップ・マーロウはやっぱりカッコいい。そして、さらに、ラストのラスト、この展開はいろいろ意見もあろうと思うが、一つ言えることは、ハードボイルドのフィリップ・マーロウ、女性には優しいということか、もっとも、依頼人の大富豪を気遣った行動ともいえるか。

 

こんなことに気づいて、書いてみようと思うのは、おそらく筆者くらいのものだと思うので、書いてみるが、クリント・イーストウッドは自身が監督した映画「ダーティー・ハリー4」では、この映画「三つ数えろ」をある意味、なぞったか、または、ハンフリー・ボガート演じるフィリップ・マーロウへのオマージュだったのか、と筆者には思えてならなかった。ダーティー・ハリーこと、キャラハン刑事も第4作目においては、女性に優しいラストであった、やっぱり、はっきり言って、映画「三つ数えろ」と同じだった、また、どちらの映画にも姉妹が出てくるのも同じだが、この姉妹は事件と大きく関係があり、これもまた、どちらの映画でも、妹のほうは精神を病んでいる、という設定、精神を病むに至った経緯などはもちろん異なるだろうが。また、主役の刑事と姉妹の姉のほうは、恋に落ちるとまではいかないと思うが、お互いに好意を持ちあう流れ‥‥などなど、全く異なったストーリーなのだが、ベースになる軸、というか、核は同じ、と感じる。

 

 

【映画パンフ】ダーティーハリー4 クリント・イーストウッド

↑  ダーティー・ハリー4

 

 

 

だからと言って、映画「ダーティー・ハリー4」がよくない、とか、けしからん、というわけではなく、映画「ダーティー・ハリー4」は、それはそれで面白かった、クリントー・イースドウッドもよかった、最後まで抵抗していた犯人はクレイジーすぎて、あの結末以外は、観ているほうも納得しかねたかもしれない。

 

映画「三つ数えろ」で若干、不満に思うのは、最後の終わり方で、あれはあれでいいのかもしれないが、なんだか、尻切れトンボ風、中途半端風、余韻ゼロ、と感じてしまって、そういう意味で言ったら、全く同じラストではあるのだが、クリント・イーストウッド監督のほうがうまく撮った、と、この点においては、映画「ダーティー・ハリー4」に軍配を上げてしまいたくなる、筆者でした。

 

マルタの鷹(1941) (字幕版)

 

 

 

映画 48時間 /  48時間Part2 帰って来たふたり   ニック・ノルティ、エディー・マーフィー  主演  

 

48時間 (字幕版)

 

前回の「ダーティー・ハリー3」で、主役キャラハン警部とその相棒のことについて書いた、「ダーティー・ハリー」シリーズでは、いやが上でも、キャラハン警部が前面に出てきてしまい、相棒の影は薄くなる、といった趣旨のことも書いた、が、今回の映画「48時間」と「48時間 part2/ 帰って来たふたり」でのコンビでは、本来の ”相棒“ の姿に戻り、主役の二人、ニック・ノルティとエディー・マーフィーが絶妙のタッグを組んでいる。また、ニック・ノルティの刑事に対して、相棒のエディ・マーフィーは囚人、という役どころで、刑事と囚人、という異色のコンビにもなっている、まあ、Part2では、エディー・マーフィーは無事釈放の身となるのであるが。

 

ニック・ノルティ扮するジャック・ケイツ刑事は何故、エディー・マーフィー演じる囚人レジーハモンドとコンビを組むことになってしまったか、それは、ケイツ刑事の追うことになる犯人の情報をレジーが知っているからであり、それは、Part2でも、同様の展開となる。ケイツ刑事はダーティー・ハリーの流れをくむ荒唐無稽の刑事であり、その荒っぽい捜査のために、上司からガミガミをと小言を言われたりするところは、何らキャラハン刑事と変わりはなく、さらにひどいことにはケイツ刑事はpart2では、或る企みにもよるのだが、自分が逮捕されて、殺人罪で刑務所に送られる瀬戸際まで行ってしまう、ここら辺の無茶苦茶さはニック・ノルティならではの味が出ているか。

 

 

48時間Part2/帰ってきたふたり (字幕版)

 

 

映画「48時間」では、コンビが白人の刑事と黒人の囚人という設定もあり、劇中、白人対黒人の人種差別問題もさりげなく描かれていたりする、一方的な描かれ方ではなく、両者の側から対称的に描かれているところがいいし、面白い、また、ケイツ刑事は荒唐無稽でかなり滅茶苦茶をしているように見えるのだが、彼もやはり、正義感であり、正直でまっとうな刑事であることが分かる、Part1でもPart2でも、ここら辺は同じながれで、そのせいで、レジーはケイツ刑事を信頼して、二人の友情が育つ。もっとも、レジーは機会あればケイツ刑事を助けて、口で言っていることとは反対に、それとなく、人の良さを披露しているのだが、そんなところもいい。

 

エディー・マーフィーはこの映画「48時間」がデビュー作であるのだが、8年後に制作された映画「48時間 Part2/ 帰って来たふたり」では、エディ・マーフィー・プロダクションズというプロダクションを率いてこの映画の製作に参加するほどになっており、当然ながら、クレジットでも8年前の映画「48時間」とは名前の順番も異なり、Part2ではエディー・マーフィーの名が、ニック・ノルティの名前よりも先にクレジットされることとなる、エディー・マーフィー、ずいぶん出世したな。

 

8年の歳月の空きがあるとはいえ、Part1とPart2では、ちょっとしたいたずらというか、サービスがあり、Part1をしっかり見ておけば、先に書いた、”同様の展開“ がでてくる肝心な瞬間を見逃さずに済んで、より、映画を楽しめるのではないか、と思う。ただ、Part2のラスト、事件の決着のつき方、意外なところは悪くないのだが、なんだか少し雑すぎるんじゃないかな、という感じは否めず、もう少し丁寧に描いてくれてもいいんじゃないか、と思ってしまうのだが、ケイツ刑事とレジーの関係が悪くなく、ついつい、最後まで見てしまうことに免じてよし、としようか‥‥。

 

また、魅力的な ”相棒“ のドラマを観たいと思ったなら、映画「48時間」の二人のコンビもおススメ、悪くないと思うけれど、ね。

 

 

 

 

 

 

 

映画 ダーティー・ハリー3   クリント・イーストウッド 主演  : 悪くないけれど残念な映画

ダーティハリー3(字幕版)

 

刑事ドラマを見る時、主役となる刑事はもちろん魅力的でなくてはならないが、その刑事の相棒となる、もう一人の刑事、こちらもやはり魅力的であることが望ましく、主役の刑事と相棒、二人が一緒になって事件を解決してゆく、そんなストーリーの運びが刑事ドラマの定石ではないかと思う。そういう点から言うと、テレビ朝日の刑事ドラマ「相棒」は、まさにタイトルがズバリ “相棒” であるし、この定石で成功し、20年以上も続いている筆者も大好きなTVドラマである、が、今回紹介するのはこの “相棒” ではなく、海を越えたアメリカの “相棒” の話である。

 

映画「ダーティー・ハリー」シリーズはもちろん、俳優クリント・イーストウッドが主役の大ヒットシリーズであるが、このシリーズではクリント・イーストウッドの俳優としての存在が大きすぎて、イーストウッド演じるキャラハン刑事の相棒、と言っても、その活躍の仕方は、TVドラマ「相棒」の警部と相棒の活躍の仕方とは大きく異なり、キャラハン刑事が映画の全面に出て活躍することになるのは当然であり、相棒の陰は自然と薄くなる、なんといったて、映画のタイトルは「ダーティー・ハリー」で、キャラハン刑事その人のことであるし。

 

映画「ダーティー・ハリー」でも、「ダーティー・ハリー2」でも、キャラハン刑事の相棒はけがをして退職したり、死亡したりと、次から次へと入れ替わる、キャラハン刑事は不死身だ、シリーズの主役であるので死ぬわけにはいかない、かわりに、キャラハン刑事の相棒が次々と殉職したり不遇の目にあったりするわけか。そして、今回の映画「ダーティー・ハリー3」では、とうとう女性刑事がキャラハン刑事の相棒として登場する。

 

映画「ダーティー・ハリー3」は1976年公開の40年以上も前の映画であるが、40年以上も前ながら、サンフランシスコ市警の殺人課に女性刑事が誕生する、という設定は、アメリカらしく、おそらく、男女平等運動の波はこれほど早くアメリカに届いていた、という一例ではないかと考える、まあ、劇中では女性刑事ケイトが女性を重要視しているよ、という市長のマスコミ向けアピール、という若干の意味合いもなくはないのだが。

 

とにかくも、この映画ではキャラハン刑事の相棒の女刑事が活躍する、銃を片手に犯人が潜むアルカトラズ島まで出向き、犯人と銃撃戦も交える、ただ一つ、この女刑事ケイトに不満があるとすれば、それは、何故か彼女はスカートをはいて、おそらくヒールの靴だと思われるが、パンプスをはいて、犯人を追うのである、さすがに、これは、違うんじゃないのか、と観ているほうには思える、スカートとヒールの靴、フォーマルっぽいジャケットを着て、犯人と銃撃戦は無理だろう。

 

この映画がTVで再放送されたころか、筆者がこの映画を再度見直した時であったか、ちょうど、森さんの発言が女性蔑視、女性差別、と問題になって、オリンピック委員会が揺れていた、と記憶する、今では、女性が主役のアクション映画も、女性刑事がドラマに登場するのも珍しくない、つい先日も、消防士として活躍する女性のニュースを見た、消防士だけではない、タクシー運転手、バスの運転手、大型トラック運転手などなど、男性の専売特許と思われていた職業においても女性の進出は今では当然のこととなる、まだ、フロンティアかもしれないけれど、そんな時代にはやはりそぐわない発言でした、遅ればせながら、TVドラマ「相棒」でも、捜査一課に女性刑事がレギュラーとなったではないか。

 

劇中キャラハン刑事は停職になるが、停職中にもかかわらず、単独捜査を行い、キャラハン刑事の ”無謀“ な捜査はシリーズの回を追うごとに、エスカレートしていくようだ。エスカレートしていくキャラハン刑事の正義とサンフランシスコ市警のお偉方の正義とは相いれず、ぶつかった正義のはざまで、悲劇が起こる、キャラハン刑事が免職にならずに、刑事を続けていられるのが不思議、と思えたりもする。

 

そんなキャラハン刑事は全2作と同じく、劇中では暴れまわり大活躍するのだが、せっかく登場した女性刑事の描かれたに若干の不満もあり、シリーズ第三作は、悪くないけれど残念な映画、としたいと思う。

 

映画  心の旅路

 

 

心の旅路 [DVD]

 

 

 

前回の映画「リオ・ブラボー」のときに、この映画は長い、と書いたが、今回のこの映画「心の旅路」も長く2時間にも及ぶ映画である、が、今回も前回の映画「リオ・ブラボー」の時と同じように、2時間という長さをほとんど感じることなく、ストーリーに引き込まれていく、つまり、この映画も面白い、映画「リオ・ブラボー」と違って、アクション、銃撃シーンなど一つもない映画である、記憶喪失の主人公と彼を助けた女性が恋に落ちて、始まる恋愛映画である。ハリソン・フォード主演の映画に「心の旅」(Regarding Henry) という映画がある、邦題のタイトルだけ見て筆者は、最初この映画はハリソン・フォード主演の映画であるか、と勘違いしていたが、いい意味で期待は裏切られた。

  

原作は有名なイギリス文学の一つ「チップス先生さようなら」を著した、イギリス人作家ジェームズ・ヒルトンであり、チップス先生はパブリックスクールで子供たちを教え導いていたが、映画「心の旅路」の片方の主人公、グリア・ガースン演じるポーラは、記憶喪失かつ、自信喪失の、こちらも主人公、ロナルド・コールマン演じるところのスミシ―を、親切に優しく導く。スミシ―は記憶は取り戻さないが、自信は取り戻し、恋に落ちた二人はめでたくゴールインし、幸せな家庭生活を営んでいく、前半のシーンは、観ているほうも幸せになれる。

 

このストーリーのポイントは、やはり、記憶を取り戻したスミシ―が、本来の自分の記憶と引き換えに、今度は、ポーラと過ごした幸せな3年間の記憶を失ってしまう、というところにある。映画では、スミシ―が失踪してしまった後のポーラの悲しみや苦労を描くシーンはなく、その間のポーラの事情は、彼女の言葉によってしか観客は知ることはできない、後半の中心は、記憶を取り戻した後のスミシ―の生活を中心に描かれることになる。

 

チップス先生さようなら(1969) (字幕版)

 

 

ある形をとって、スミシ―とポーラは再開することになるのだが、再会した後もスミシ―の記憶はなかなか戻らず、歳月ばかりがいたずらにすぎる。なかなか戻らないスミシ―の失われた記憶、批評家や映画を観た人の感想では、なかなか戻らないスミシ―の記憶喪失にイライラしたり、早く思い出せばいいのに、という感想を持った方も少なくないようだ、が、筆者は思う、なかなか戻らないスミシ―の失われた記憶ゆえに、ポーラの苦悩はあり、観ているほうは、ポーラの苦悩をひしひしと感じさせられ、観客をじらすように戻らないスミシ―の記憶喪失のほうがリアルであり、現実味を感じる、と。

 

大富豪に戻ったスミシ―が、工場のストライキを解決したあたりから映画はクライマックスへ、やはりこの映画は、最初からしっかり見ておかないといけない、スミシ―と共に観ているほうも記憶を呼び戻し、思い出さなければ、映画の楽しみも、ラストの感動も半減する、 “ボーっと” 映画を観ていちゃいけないよ。ただ、一つ、消化不良なのは、スミシ―を失ったポーラと冒頭の精神病院でスミシ―を診ていた精神科の先生がどうやって知り合ったのか、っていうことの説明が筆者はほしかった。

 

 

幸せな短い歳月の間もスミシ―を導き、ポーラを忘れてしまった長い歳月の間もスミシ―を導き、彼の幸せのために二人の結婚もなかったことにするポーラであった、スミシ―失踪後のキャリアの積み方を観ても、強くて優秀な女性であることは間違いなさそうだ、ポーラの幸せを願うばかり、やはり、この映画をみるには、ハンカチが必要かもしれないと思うのですが‥‥、いい映画でした!