Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画   第十七捕虜収容所       ビリー・ワイルダー  監督

第十七捕虜収容所(字幕版)

 

捕虜収容所を描いた映画、と言ってすぐに頭に浮かぶのは、映画「大脱走」であり、スティーブ・マックイーンがバイクをとばして、ドイツ兵から逃走するシーンであるとか、何度も脱走を試みては失敗し、独房にいれられ、独房の壁を相手にキャッチボールするシーンであるとか、お馴染みなのである。今回、語っていくのは、その映画「大脱走」よりも10年前の1953年に制作された、あのロマンティック・コメディーを撮らせたら一級の腕と言ってもよい、ビリー・ワイルダー監督による映画「第十七捕虜収容所」である。

 

同じ捕虜収容所の映画ということもあって、若干似ているシーンもなくはない、映画「大脱走」による、映画「第十七捕虜収容所」へのオマージュとも考えられるかもしれない、とはいえ、映画「大脱走」では、主にイギリス人が集められた収容所の話であるのに対して、映画「第十七捕虜収容所」のほうは、全員、捕虜となっている兵士はアメリカ人、という設定になっている。前者が、収容所の生活よりも、どちらかというと、脱走の準備、脱走のためのトンネル堀など、タイトルが示すとおり、あくまでも “脱走” に重点を置いて撮影されたと思われるのに対して、後者は収容所内で起こる事件、収容所内での生活の描写に重点が置かれている。

 

その ”第十七捕虜収容所“ で事件は起きる、舞台となる収容棟にドイツ軍に内通しているスパイがいる、というところから物語は始まり、収容所内での生活が描かれるのと並行して、このスパイ探しもメインのストーリーとなってくる。若き日のウィリアム・ホールデンがいい役を演じている。映画での最後のスパイ探しのクライマックスでは、ウィリアム・ホールデン、カッコいい、なんて思っていたら、アカデミー賞で主演男優賞を受賞していた、さもありなん。また、若き日のピーター・グレイブスも観ることができる。ピーター・グレイブスと言えばTVドラマ「スパイ大作戦」での、若干、渋さを増したピーター・グレイブスがお馴染みだったので、この映画での、実に若い、ピーター・グレイブスは新鮮であった。

 

ドイツ軍による、捕虜の取り扱いは、ジュネーブ条約にきちんとのっとっているかと言えば、映画の中では必ずしもそうではないのだが、映画のラストのほうでは、収容棟内でのクリスマスパーティーの様子なども描かれる、捕虜収容所内のこととはいえ、アメリカ兵たちは実に楽しそうにクリスマスを祝っていた、捕虜とはいえ、このような自由は許容されていたのだな、と思った。

 

ひるがえって、日本にも、もちろん、戦時中には捕虜収容所があった、第一次世界大戦時にあった、徳島県鳴門市大麻町の捕虜収容所には、ドイツ人の捕虜が収容されていて、かなり自由な生活が認められていたという、その自由な生活の中でドイツ人の捕虜が取り組んだことの一つに、音楽活動があり、彼らが日本で初めてベートーベンの交響曲第九番を演奏したという、地元の住民との交流も深かったようで、戦争が終わってドイツに帰国した後にも、元捕虜と住民の交流があったらしい。

 

日本の捕虜収容所、などと言うと、筆者は、第二次世界大戦中の特高のイメージが強かったので、鳴門市大麻町の捕虜収容所のことを知った時には、日本でも戦争捕虜の取り扱いについては、捕虜の人権を尊重した扱いがなされていたのであったか、と、実は意外感に打たれたのであった。まあ、第一次世界大戦と、第二次世界大戦、という違もあり、大麻町以外の捕虜収容所のことは、詳しいわけでもないので、この収容所については、と付け加えざるを得ないのであるが。

 

さて、映画のほうはどうであるか。映画のストーリーでは、最後は収容所内の事件も無事に解決する、解決するのは良いのだが、筆者は、その解決の仕方に、若干の残酷さを感じてしまった。捕虜収容所の話とはいえ、やはり、戦争を扱った映画であり、戦争における残酷さをこの映画でも避けて通ることはできなかった。まあ、”犯人“ は、その運命を受けるに相応しい残酷なことを当人もしており、当然といえば当然の報いでもあるのだが、目には目を、って感じでした。

 

ラスト、収容棟の窓に、MERRY XMAS の文字が浮かぶ。ビリー・ワイルダーらしいエンディングだと思ったのだが、筆者は、この映画では素直にMERRY XMAS、とお祝いのハッピーな余韻を感じることができなかった、やはり、戦争映画だった、この映画は……面白い映画ではあるんだけれどね。

 

 

 

 

映画 トッツィー       ダスティン・ホフマン  主演:   悪くないけれど残念な映画

トッツィー (字幕版)

 

ダスティン・ホフマンと言ってすぐに思い浮かべる映画は、彼のデビュー作、「卒業」と、トム・クルーズと共演し、障害を持つ兄を演じた「レインマン」であり、前者では2つの新人賞を獲得し、後者においては、アカデミー賞ゴールデングローブ賞で、主演男優賞を獲得している。この二つの映画だけではない、映画「クレイマー・クレイマー」であるとか、映画「真夜中のカーボーイ」であるとか、あげればきりがなく、ダスティン・ホフマの演技のすばらしさを堪能できる映画はある。

 

今回の映画「トッツィー」もまた、上に述べた映画とはまたちがった角度から、ダスティン・ホフマンのうまさを、観ることのできる映画であると感じる。今回、彼は、女になる、つまり、女装して、ドロシー・マイケルズという、ソープオペラのオーデションに合格して、次第に人気者になっていく女性と、マイケル・ドーシーという、その完璧主義のために売れない男優、という一人二役をこなす。見どころは、やはり、女性に扮した、ダスティン・ホフマンの女性ぶりであり、映画全編にわたって、ダスティン・ホフマンの演技のうまさを、ただ、ただ、見せつけられるような映画である。

 

筆者は、この映画を観ながら、ダスティン・ホフマンの演技のうまさに感心しながらも、何故か、これでもか、これでもか、というほどに見せられる、彼の “うまさ” が、少々鼻に着いたりしてしまった。なんというか、もうわかったから、君の演技のうまさは、もう、十分だから‥‥、という感じか。

 

女性としての、ダスティン・ホフマンの演技のうまさは、置いておくとして、映画の初めのあたりで見せられた、ドロシー・マイケルのホフマンは、やはり、多少、体つきも顔つきもごつくて、ちょっと女性にしては無理があるんじゃないか、と、思った、が映画が進行するにつれて、特に、ドロシーが人気者になって、雑誌のグラビア、雑誌の表紙を飾る、とここまでくると、妙に、美しく、女性らしく、元気いっぱいおしゃれな、ドロシーを見せられる、この、雑誌のグラビア撮影の時のドロシーは、確かに、美しかった、本物の女性と思っても自然であるな、と感じた、ダスティン・ホフマン、さすが、というところか。

 

この映画「トッツィー」を観ていて思い出すのは、やはり、日本の歌舞伎の女形であり、女形と言えば、坂東玉三郎であり、女性以上に女性らしく、女性以上に美しく、時に妖艶な女形である、玉三郎玉三郎と元気いっぱい、明るいドロシー・マイケルズのダスティン・ホフマンを単純に比べるわけにもいかないが、同じ、女を演じる男性であっても、東と西ではずいぶん趣も異なるものだな、と思わずにはいられない。

 

また、西洋においても、シェイクスピアの時代には、役者は日本の歌舞伎と同じで、男性の役者しかいなかった時代であった、なので、当然、シェイクスピア劇の女性の役は男性が、少年が、演じていた、男が女装して女を演じる、西洋においても、別だん、特に目新しいことでも、現代的なことでもなく、16世紀の後半から17世紀にかけて、日本の歌舞伎と同じよう、西洋でも行われていた。西洋にも ”女形“ がいたのであろう。

 

さて、では、ストーリーのほうはどうなのか、と思われるかもしれない。ダスティン・ホフマン演じるもう一人の男性のほうの、マイケル・ドーシーは、先ほど、ダスティン・ホフマンの過剰に見せられる演技の “うまさ” が鼻に着いたと書いたが、それと同じく、彼の、完璧主義さがやはり、筆者には少々、鼻に着いた、ちょっとやりすぎじゃないか、など思ったりもする。女装ドロシーによって、引き起こされる数々のエピソードも面白いのだが、やっぱり、どうも、残念ながら、筆者にはドロシーが好きなタイプの女性ではなかった。など、いろいろ、物申したくなる点もあったりする、トータルには面白い映画なのだが、残念である。

 

ということで、この映画、ダスティン・ホフマンのうまい演技を堪能するには、もってこいの映画と言えるのだが、彼の扮するドロシーが、タイプかどうかは意見の分かれるところ。

 

まずは、映画を観てみて、女装したダスティン・ホフマンを堪能してみるのがおすすめ!

 

 

 

映画 「メン・イン・ブラック」/  「メン・イン・ブラック 2」   トミー・リー・ジョーンズ    ウィル・スミス    主演

 

 

メン・イン・ブラック (字幕版)

 

発想が奇想天外すぎて、コミカルすぎて‥‥という人もいるかもしれない、が、エイリアンを扱った映画は星の数ほどあり、この映画「メン・イン・ブラック」と映画「メン・イン・ブラック 2」も地球と地球人とエイリアンを扱った映画として、筆者は痛く気にいっており、映画「メン・イン・ブラック」もいいのだが、どちらかというと筆者は、映画「メン・イン・ブラック 2」のほうが気に入っているのである。

 

まず、トミー・リー・ジョーンズがいい、トミー・リー・ジョーンズと言うと缶コーヒーボスのコマーシャルでおなじみの方も多いいと思うが、映画では地球に住むエイリアンを統括し、エイリアンから地球を守るMIBという組織(Men In Black)の腕利き捜査官を演じている、ボスのコマーシャルでは逆に地球を訪れて地球人を観察しているエイリアンを演じている。そうなのである、映画「メン・イン・ブラック」では、数多くのエイリアンたちが地球で暮らしていて、地球人と共存している、地球人に気づかれないように。仮に、エイリアンが地球で事を起こして、一般の地球人がエイリアンと接触してしまっても ”ピカッ“ と、ひと光浴びれば、目撃したことをすべて忘れてしまうという、実に便利な装置を彼らは携帯している、地球におけるエイリアンの存在を知るのはMIBのメンバーのみとなる。

 

メン・イン・ブラック2 (字幕版)

 

トミー・リー・ジョーンズがいいと書いたが、相棒となるウィル・スミスもいい、二人の掛け合いが面白い、映画「メン・イン・ブラック」では、まだ新入りの駆け出し捜査官であるのだが、「2」では、すっかり腕利きのベテラン捜査官となる、しかし「2」で、トミー・リー・ジョーンズ扮する捜査官Kが復帰すると、そのキャリアの差はやはり歴然となり、途端に、ウィル・スミス演じる捜査官Jが、第一話の映画の新米捜査官のようになってしまうところも面白くていい。

 

この映画はSFであるが、コメディ映画でもある、「2」の冒頭では、トム・クルーズ主演の大ヒット映画「ミッション・インポッシブル」シリーズの元となった、TVドラマ「スパイ大作戦」でおなじみのピーター・グレーブスがピーター・グレーブスとして登場し、なんともチープなつくりの円盤がでてきて、チープな話をするのであるが、この ”チープ“ な映像が映画「メン・イン・ブラック 2」で、事件が起きてストーリが展開していくための発端というか大きな鍵になるのである。筆者はこのピーター・グレーブスが紹介する円盤を観て、アメリカの古い古いTVドラマ「謎の円盤UFO」というSFドラマに出てくる円盤を思い浮かべた、まだ、特撮が初期の初期の頃の、本当におもちゃみたいな円盤なのである。

 

ストーリーは映画「メン・イン・ブラック」でも「2」でも、捜査官KとJが地球を救うためにラストにはエイリアンと対決するという運びになるのであるが、このエイリアンとの対決シーンは、「2」のほうに軍配を上げたいと思う。映画「メン・イン・ブラック」でも、最後にはエイリアンがその正体の全貌を現わしてくるのだが、どうも、その、全貌が、筆者には思っていたほどの迫力と驚愕を感じさせてくれなかった、実に巨大なエイリアンのはずなのであるが、観ていてどうもスケールの大きさを感じられなかった、先ほどからの表現を借りるならば、少々 ”チープ“ である、と感じてしまったのである。果たして、皆さんはどう感じるかは、実際に映画を観てほしい。

 

が、エイリアンと対決しながらも、とぼけたギャグが入ったりして面白い、捜査官KとJがエイリアン相手に使う数々の武器もいい、そんな、少しばかり漫画チックな映画である、が、面白い。SF好きな方ならば、この面白さが分かるのか、それとも、SFに興味のない方にも、通じる面白さなのか? それとも、面白さ通じない?

 

そこのところは、やはり、実際に映画を観て確かめてほしいところである。

大ヒットした、面白い!映画です。

 

 

 映画「64(ロクヨン)」    佐藤浩市 主演 /  横山秀夫 原作

 

64-ロクヨン-前編

 

「64(ロクヨン)」というのはなんの数字か? とまず、最初に思うのではないかと思う。“64” というのは、昭和64年のことであり、天皇崩御のために、わずか7日間しかなかった昭和であり、その7日間に起こった事件がこの小説の核になるところ、この映画の核にもなるストーリーなのである。

 

  筆者は映画も見て、小説も読んだのであるが、思うに、筆者はもしかしたら、映画のほうが小説を越えているのでは、観ているものを引き込む力があったのでは、と思ってしまった。小説ももちろん悪くはないのである、核になる昭和64年の事件、警察とマスコミの攻防、警察内部の抗争、主人公、三上警視の家庭問題、などなど、様々なストーリーが複雑に絡み合って、紡ぎあいながら、物語は展開していくのであるが、筆者が初めてこの小説を読んだ時に感じた感想というのは、事件がなかなか起こらないなあ、というものであって、小説の後半になって、映画ではズバリ、後編であるのだが、とにかく、小説の後半になって、やっと物語が展開し始めたというか、回りだしたというか、そんな感想を抱いた、そこにたどり着くまで、マスコミ、警察内部、もちろん、後半の事件に関連する様々な出来事が起こるのであるが、筆者にとっては、少々長すぎた‥‥と感じてしまったのである。

 

  では、映像のほうはどうなんだ、と問われるであろう、今回の映画「64(ロクヨン)」についていうならば、映像では前半の肝心の事件が起きる前の、いわゆる、前置きをうまく視聴者の関心を惹きつけながら、忘れてはいけないよ、14年前の昭和64年の事件のことも、と、ちゃんとフォローしながら、映画は進んでいく、それに、役者の演技もうまいので、観ていて飽きない、マスコミとの確執も、うまく、映像にして、映画後半につないでいった、と、かなり、筆者は評価しているのである。

 

  警察内部の様子、であるとか、警察の内部事情、などは、筆者はTVドラマ「相棒」のファンであり、TVドラマ「相棒」を頻繁に見ているので、割と、見慣れた映像なのである。こちらは刑事2人の相棒のドラマであるのだが、同時に、或る意味、警察内部の様子もよくわかる、警察ドラマ、とも言えたりする。ただ、三上警視の所属している広報課とこちら ”相棒“ の広報課を比べてみると、かなり、様子の違う広報課が描かれている、もっとも、舞台も前者はD県警、後者は警視庁と、舞台となる場所が異なるのだから当たり前と言えば当たり前。

 

  ただ、今回の映画「64(ロクヨン)」では、刑事ドラマ、警察ドラマ、などでは、とかく、スポットライトを浴びることが少ない、広報課、という部署に、思い切り、スポットライトを浴びさせて、匿名報道か、実名報道か、をめぐって、三上警視とマスコミとのバトルを描いたところに、今までの警察ドラマにはなかった、新しさがあったかとも思われる。だた、匿名か実名かという、三上警視とマスコミのバトルは、先にも書いたこの映画の核となる昭和64年に起きた事件とは、直接には、全くかかわりを持たない。確かに、新しい斬新な切り口ではあるのだが、映画の核心、言い換えると、小説のストーリーの核心、とは直接のかかわりを持たないだけに、小説を読んでいた時には、妙に前半長いなあ、と、筆者が感じてしまった所以ではないのかと思う。

 

64-ロクヨン-後編

 

  では、後半はどうなのか? 後半では、事件は急展開する、もちろん、“64” で起きた事件の真相も解明され、過去と現在で起きている様々な事件の伏線は回収され、手に汗握り、ハラハラ、ドキドキさせられ、食い入るように、と言ったらおおげさかもしれないが、とにかく、時のたつのも忘れて映像を見ることができるのである。TVドラマ「北の国から」で、実にうまい子役であった吉岡秀隆君の警察官役もいい、彼の残した ”幸田メモ“ というのも事件と大きくかかわってくる、また、三浦友和演じる捜査一課長もいい、犯人を追う捜査車両の中で、三上警視を恫喝するところは、実にカッコいい、と思った。そして、もちろん、主役である三上警視、マスコミとのバトル、家庭での苦悩、64事件の犯人を取り逃がしたことへの自責の念…などなど、演ずる佐藤浩市の演技がとてもいいと、思う。

 

やはり、前半、後半、供に、見所のある映画なのである、なので、やはり、この映画、一度は見ても “いい” 映画かな、と思う次第。未見の方は、是非どうぞ。

 

  

映画 北北西に進路を取れ   ケーリー・グラント 主演/    アルフレッド・ヒッチコック 監督:      悪くないけれど残念な映画

 

 

北北西に進路を取れ(字幕版)

 

ヒッチコックの作品にはヘンリー・フォンダ主演の映画「間違えられた男」という作品もあるのであるが、この映画「北北西に進路を取れ」も、やはり、或る意味 ”間違えられた男“ というのが、ことの始まりであり、前者は実話をもとにしたストーリーであるようだが、後者、ここで取り上げる映画「北北西に進路を取れ」は、フィクションの物語であり、ケーリー・グラント演じる広告会社の重役ソーンヒルが、自分でも気づかない或るちょっとした偶然のいたずらから、スパイのキャプランという男と間違えられてしまい、とんでもない災難と冒険へと駆り出されるという物語である。

 

まず、冒頭の ”間違えられ方” がうまい、さりげなく、ごくごく自然な成り行き、これではちょっと防ぎようがない、というくらいの偶然性、ソーンヒルは実に災難、運が悪い、と言わざるを得ない。どこのどんなシーンであるかは、映画を観て確かめてほしい。この映画の見せ場はいくつもあるのだが、やはり、シカゴの郊外の広大な平原で、軽飛行機に襲われ銃撃までされるというシーン、銃撃の迫力は今一つと感じるのだが、飛行機を背にして、ソーンヒルが走る、有名なシーンはやはり迫力があり、迫力には今一つだと思った銃撃シーンも、あのシーンで機関銃を乱射するのは、あの道路が一般の車やトラックも時には通行するということを考えるならば、あのくらいの銃撃が限度であったか、とうなずけたりもする。

 

やはり、ハラハラドキドキして面白くなってくるのは、後半、ソーンヒルが恋に落ちる謎の女性の正体が明らかにされてからの展開であり、ソーンヒルによる自身のイニシャル入りマッチの使い方であるとか、これも秀逸だと感じる、また、ラストのサウスダコタ州のラシュモア山国立記念公園の岩に刻まれた巨大な大統領の顔での、逃亡、対決シーンであり、こういったところは、さすがヒッチコック、と思わずにはいられないサスペンスであった。

 

が、しかし、映画全編を通して、この謎の女性や、彼女を支援している教授、と呼ばれる男性が一体全体何という組織に所属しているかは明かされない、FBIでもCIAでもいいのだが、ヒッチコックはそこのところははっきりさせない、そんなところが、なんとなく、リアリティに欠け、サスペンス感を若干そぐような気がしてならない。さらに、この映画は主人公ソーンヒルと謎の女性が恋に落ちないとどうにも展開していかないストーリであるのだが、その肝心ともいえる出会い、親しくなっていく過程、がどうも不自然、唐突感が否めず、その点において、映画に感情移入していくことを妨げる。

 

舞台はニューヨークからシカゴへ、シカゴからサウスダコタへ、と移動してゆく、タイトルにでてくる ”北北西“ という方角とは何の関係もない舞台の移動、 ”North by northwest” という方位は実際には存在しないという。ある説によると、このタイトルはシェイクスピア戯曲「ハムレット」の一節からきているのではないか、と言われているようだ、曰く ”私は北北西の風の時に限って理性を失ってしまう。( I am but mad north-moth-west …….)”と。確かに、主人公ソーンヒルは理性を失ったかのように、謎の女性に恋をして、理性を失ったかのように、彼女のために命を懸けて、危険の真っただ中に飛んでゆく、可能性としては、一番ありそうな説であるな、と筆者は感じる。

 

そんなこんなで、みどころは数ある、面白いサスペンス映画なのであるが、先に触れたいくつかの点は残念であり、ゆえに、悪くないけれど残念な映画としたい。この主人公、謎の女性と出会う前にも、酒を無理やり飲まされ、ベロンベロンに酔っぱらい、理性もなくして、今にも車ごと海に落とされて命を落とすところであった、やはりこの映画、サスペンス溢れるスパイ映画であると同時に、”理性をなくした“ 男が、恋する女性のため、危険に突き進み、恋を成熟させる、といった映画としてみるのも、ありかもしれないと思うのでした。

 

 

 

映画  引き裂かれたカーテン   ポール・ニューマン/  ジュリー・アンドリュース 主演   アルフレッド・ヒッチコック監督 : 悪くないけれど残念な映画

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東西冷戦が終結して久しい。現在のドイツが東と西に分かれていて、その境界にベルリンの壁という鉄壁の壁が存在し、同じドイツ人でありながら、東ドイツから西ドイツへの自由ないききはままならず、仮に、このベルリンの壁を越えようとしようものなら、容赦なく射殺される運命にあり、ドイツ人の中には、家族ですらも東と西に離れ離れにされてしまった人々もいた、という時代のことを、今一度思い出してもらいたい。アルフレッド・ヒッチコック監督による、この映画「引き裂かれたカーテン」は、そんなドイツが東と西に分断れていた時代に、東側に潜入して、或る情報を手に入れんとする、西側スパイの物語である。

 

この映画の ”引き裂かれたカーテン“ というタイトルだけを聞くと、ある人はカーテンが引き裂かれて何か事件が起こる、というミステリーを想像するそうだ、それで言うと、筆者などは、ヒッチコック監督の名作スリラー「サイコ」の、ヒロインがシャワーを浴びていて、襲われるシーンなどがすぐ頭に浮かぶ、バスルームのシャワー用カーテンは引き裂かれ、殺人事件は起こる‥‥。この映画「引き裂かれたかーテン (Torn Curtain)」というタイトルは、ヒッチコック監督が自身の映画のワンシーンを洒落て、ギャグにしたのか‥‥、と想像したりしてしまうのである。まあ、この映画では ”鉄のカーテン“ 、東西ドイツを分断しているベルリンの壁を暗に意味していると、とらえるのが、もちろん、自然であるのだが。

 

映画「引き裂かれたカーテン」では、主演、ポール・ニューマン東ドイツに潜入するスパイの物理学者、そして、彼の婚約者に、ミュージカルの大スター、ジュリー・アンドリュースが扮する。だが、ジュリー・アンドリュースはこの映画では、ただの一曲も歌を歌わない。この映画「引き裂かれたカーテン」が撮影される前年には、あの有名な大ヒット映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、素晴らしい歌声、歌唱力を存分に披露しているのに、である。ヒッチコックはあえて、ジュリー・アンドリュースの素晴らしい声を封印して、彼女に演技のみをさせたのか、そこのところは監督のみぞ知るところ。

 

ただ、ポール・ニューマン演じるアームストロング博士がジュリー・アンドリュース演じる、彼の婚約者サラに、彼が東ドイツへやってきた、真の目的を告白して、サラをなだめるシーンがある。この時、二人は、小高い丘の上に二人で登っていき、丘の上の二人の姿を遠くからドイツの保安省長官が眺めている、という構図である。そして、筆者はこのシーンにおいて、映画「サウンド・オブ・ミュージック」のオーストリアの山でジュリー・アンドリュース演じるマリアが、思い切り、美しい歌声を披露しているシーンを思い出して、ひょっとしたら、ジュリー・アンドリュース、思わず歌いだしてしまうのではないか、と思ってしまった。

 

 

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さらに、二人で見つめあうアームストロング博士とサラは映画「サウンド・オブ・ミュージック」において、二人で見つめあうトラップ大佐とマリアを彷彿とさせ、こちらも、やはり、二人がデュエット始めてしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。このあたりのシーンは、ヒッチコックが映画「サウンド・オブ・ミュージック」をパロディした、ギャグではないかと、思ってしまった。そして、さらに、アームストロング博士とともに、ドイツ兵士たちに追われながら、ドイツ脱出を図るサラは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」において、ドイツの兵士らに追われ、アルプスを越えてオーストリアからスイスへ脱出しようというマリアとトラップ一家を連想させる。ヒッチコック、最初から、映画「サウンド・オブ・ミュージック」をパロディしようと思って、ジュリー・アンドリュースを抜擢したのか、と、うがった見方すらしたくなるのである。

 

割とシリアスなサスペンス映画であると思っていたのに、ジュリー・アンドリュースから歌を奪い、なおかつ、実は、そんなパロディ満載の映画だったのか、と改めて、ヒッチコック監督の遊び心を感じることのできる映画である。一方で、偽造路線バスでの逃避行、劇場での危機一髪での脱出、貨物船からの脱出、と、見せ場は数々用意されていて、なかなか、悪くないドキドキ感も味合わせてくれるのであるが、どうも、今一つ、手に汗握って、ドキドキするパンチに欠けるというか、スパイスが足りない‥‥ということで、この映画、悪くないけれど残念な映画としたい。ヒッチコック監督の遊び心、筆者は以上のように感じましたが、そんなところも、悪くはないな、と感じるところではありました。

 

映画  ビューティフル・マインド   ラッセル・クロウ  主演/     ロン・ハワード  監督

ビューティフル・マインド (字幕版)

 

今回は今一度ラッセル・クロウが主役の映画、前回の古代ローマの剣闘士を演じたラッセル・クロウとは180度異なる役柄、同じ人とは思えない、が、役者だからあたりまえ、ともいえる、とにかくラッセル・クロウがうまい、精神疾患のために幻覚に悩まされる、悩まされながらも、ついにはノーベル経済学賞を受賞する、数学の天才、ナッシュ教授、今回それが、ラッセル・クロウの役どころである。

 

数学の天才ではあるが、そのあまりにも奇人変人な行動や言動を、映画の初めのころに見せられると、ナッシュ君、これでは友人もできなかろう、孤独の大学生活になるのでは、と観ているほうは思ってしまうのであるが、ナッシュ君の天才ぶりのおかげか、やはり一目は置いたのであろう、ストーリが展開するうちに、最初はなんだ、とおそらく思っていたに違いない連中とも、いつのまにか仲良くなっている、生涯の友にもなったようで、或る意味、よかったねナッシュ君、などと思って安心したりする。さらに、ナッシュ君には彼女もできる、結婚して子供ももうける、幸福に家庭生活を送っている様子が描かれ、ナッシュ君よかったね、とここでも観ているほうは、何故かホッとしたりする。

 

が、彼の抱えている精神的疾患は、彼に幸せな生活を続けさせてくれない、やがて、それが原因となって、ナッシュ君は苦しむ、奥さんも苦しむ、そんなナッシュ一家の描写は、少しばかり背筋がぞっとするように、怖いのである。このあたりの、ラッセル・クロウの演技、奥さん役のジェニファー・コネリーの演技は迫真であり、観ているほうは画面に引き込まれる、監督ロン・ハワードの腕も冴えに冴える。

 

映画の中で、ナッシュ君の幻覚の描写はかなりすさまじく、その幻覚は一人息子の命さえ危険にさらすまでになる、奥さんのメンタルも限界まで来ていたのではないかと想像するに難くない、が、ナッシュ君の妻は彼を見捨てることはなく、幾度か危機もあったろうと想像できるが、最後まで、ナッシュ君を支える、彼の友人もまた、先にも書いたとおり、彼の状況を承知のうえで、ナッシュ君を温かく迎え、彼の力となる、このような心は “beautiful heart” といえるのではなかろうか。

 

一方、ナッシュ君は自身の困難と闘い、挫折を繰り返しながらも、その数学的才能は衰えることを知らず、紆余曲折しながらも、最後はやはり、学問の府、大学へと舞い戻る、苦境を克服しつつ、そこで教鞭をとりながら、やがてノーベル経済学賞受賞となるのである。おそらく、幻覚を見るという症状と闘う苦しい過程において、時には、絶望の淵の追いやられる時もあったと思われるナッシュ君を支えたのは、奥さんや友人の支えももちろんあったのであるが、彼の数学、又は、学問への、深い愛情、かつ、彼自身の素晴らしい “intelligence” 、つまり、”beautiful mind” にほかならないと感ずる。

 

この映画は実在の数学者、ジョン・ナッシュをベースにしたストーリであり、どうやら、映画のストーリー自体と実際のところに違いがあって、いろいろと指摘や批判を受けているようである。が、筆者は思う、彼の数学的才能、彼の天才、彼の数学や学問への愛情こそが、彼の抱える苦境や彼のおかれている状況を越えて、“beautiful mind” として、彼の中で不変の輝きとなる。監督、ロン・ハワードはこの天才的数学者、ジョン・ナッシュのこの輝きが、最大限に輝く様を観ているものに感じてほしかったのではないか。

 

映画「グラディエーター」とは、180度異なる、天才数学者を演じるラッセウ・クロウを観るのもよし、統合失調症という精神疾患についての啓発を受けるもよし、ナッシュ夫妻の苦難と戦う姿に感動するもよし、で、様々な角度から観ることのできる映画である。

 

天才数学者としてのラッセル・クロウの迫真の演技を観てみるのもいいかもしれないね。

 

 

 

 

映画 グラディエーター    ラッセル・クロウ 主演/    リドリー・スコット 監督

グラディエーター (字幕版)

 

ローマを訪れると、その巨大な円形競技場、コロッセウムを目にすることができる、フォロ・ロマーノと並んで古代ローマの遺跡として有名な観光地である、この円形競技場の観客席にたたずみ、競技場を見下ろしながら、古代ローマにおいて、この円形競技場がどのように使われていたのか、と思いを馳せる。無数にある観客席はローマ市民で埋め尽くされ、そのローマ市民は競技場で行われている競技に熱狂している、それは、あたかも、現代の、例えば、東京ドームで、客席を埋め尽くす野球ファンが、見下ろす野球場で行われている、巨人vs.阪神戦に声を張り上げて熱狂するがごとき光景と似ている。ただ、現代の東京ドームと異なるのは、そこで行われていた競技が、野球の競技などではなく、人間vs.人間がお互いに剣と剣を交えながら、死闘を繰り広げる、生きるか死ぬかの、血なまぐさい戦いだったのである。

 

「エイリアン」「ブレードランナー」といったSFの名作を手掛け、日本の名優、松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」を撮影した、リドリー・スコット監督は、このローマの血なまぐさい、又、現代に生きる私達から見たらあまりにも残虐な古代ローマの ”競技“ 、”見世物“ を映画「グラディエーター」で、見事に映像に再現した。この血を血で洗う競技を行う剣闘士のことを ”グラディエーター“ と呼ぶのである。

 

主人公は、ローマ軍の将軍から、奴隷に身を落とした、ラッセル・クロウ演じる、マクシムスという男であり、ローマ皇帝から、自分の跡を継いでほしいと乞われたばかりに、奥さんも子供も虐殺され、自身はローマ軍を追われ、奴隷となる。映画では、競技場でのグラディエーターたちの戦いぶりばかりではなく、多くはないが、彼らの生活、剣闘士養成所、剣闘のルールみたいなことも描かれている。そして、映画を観ているほうは、この競技の残虐さに息をのむ。

 

日本において戦国時代が映画やTVドラマの時代劇舞台として人気があるのと同様に、西洋では古代ローマという時代は映像的題材として、もしかしたら人気があるのかもしれない。映画「ベン・ハー」では、やはり円形競技場でチャールトン・ヘストン演じる奴隷ベン・ハーが、こちらは、迫力ある戦車競走を見せてくれる、同じくカーク・ダグラスが剣闘士としての反乱奴隷、スパルタカスを映画「スパルタカス」で演じてみせる、また、映画「クレオパトラ」ではエリザベス・テーラー演じるところのクレオパトラが、シーザー、アントニーとともに、ローマ帝国を舞台に一大歴史ドラマを演じる、かくも、古代ローマ時代という舞台は、ハリウッドの映画人に人気のある時代、と言えるのではないか。

 

スペインには ”闘牛“ という娯楽が今なお残っている。筆者はいまだ闘牛を実際に見たことはないのであるが、コロッセウムに似たような円形闘牛場で、人間vs.人間ではないが、人間vs.牛で牛が血を流して息絶えるまで追い詰めていき、観客がその ”見世物“ に大歓声を上げて熱狂するという姿が、映画「グラディエーター」で描かれた人間同士がお互いに相手が息絶えるまで追い詰めあうという ”見世物“ に観客が我を忘れて夢中で歓声を送り続ける、という姿と重なってしまうのである。どうやら、闘牛が初めて ”見世物“ として公の場にでてきたのは中世らしく、果たして、古代ローマの剣闘とその中世に世に現れたといわれる闘牛とが、何かつながりがあるのかどうか、残念ながら筆者にはわからない。

 

映画「グラディエーター」を見て、剣闘士たちの競技のシーンは当然のごとく残虐であった、が、一方で、より残虐さ、残酷さを感じたのは、先ほどから書いているが、その競技を見ている観客たちの姿であった、古代ローマの市民は、大人から子供まで、そう、子供までである、剣闘士たちが ”殺戮“ しあうのを、現代、私たちが野球の巨人・阪神戦に夢中になって熱狂するのと同じように、娯楽として熱狂し観戦していた。

 

そんなところを見事に描ききった、リドリー・スコット監督、この映画は、アカデミー賞英国アカデミー賞ゴールデングローブ賞でそれぞれ作品賞を受賞し、それらも含めて36もの賞を受賞している。まだ、未見の方、一度見てみる価値はあると思うよ。

 

 

 

 

 

映画   本能寺ホテル : 悪くないけれど残念な映画

 

本能寺ホテル DVDスタンダード・エディション

 

現代人が過去にタイムスリップする物語ときいてすぐに思い出すのは、大ヒットしたハリウッド映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、大好きな映画で、とても面白い!と思う映画である、主人公のマーティー少年が、若き日の自分の両親と出会い、物語は展開する。タイムスリップする話となると、まず、どこの時代にタイムスリップするか、というのが一つのポイントであり、それで言うと映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はユニークな着想で成功した、ロバート・ゼメキス監督快心の作品と言えるのではないかと思う。

 

それでは、アメリカではなくて日本ではどうかというと、タイムスリップ・ストーリーと言ってすぐに頭に浮かぶのは、映画ではないが、筆者も以前取り上げたことのあるTVドラマ「信長のシェフ」、現代のシェフが戦国時代にタイムスリップして織田信長の料理人として、戦国の世を生き抜くというストーリーで面白かった。そして、今回取り上げたタイムスリップ映画「本能寺ホテル」も、織田信長明智光秀の謀反によって打ち果てた ”本能寺“ というタイトルからも想像できる通り、映画の主人公は戦国時代にタイムスリップして、そこで織田信長に出会うのである。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー (字幕版)

 

日本のタイムスリップ映画では、タイムスリップする時代に何故か戦国時代が多い、そして、タイムスリップした戦国時代で出会う人物というのも、織田信長が圧倒的に多いと感じる。タイトルだけ挙げてみても、先に述べたTVドラマ「信長のシェフ」、今回取り上げた「本能寺ホテル」、筆者は未見であるが映画「信長協奏曲」、「信長協奏曲」はもともとコミックであり、TVドラマにもなったようだ。筆者は以前、現代にタイムスリップしてきた信長と少年の掛け合い、そんな、コマーシャルも見たことがある、残念ながら、何のコマーシャルかは記憶にないが。

 

なぜ、織田信長はこんなに人気があるのか? 戦国時代にタイムワープしてしまった先で、徳川家康や、豊臣秀吉や、武田信玄とともに冒険する、なんていう話は聞かない。思うに、これらの武将であったら、未来からきた、などとわけのわからないことを言おうものなら、怪しい奴、と言われて、即刻その場で切り捨てられるのが落ちではないかと想像できる。一方で、織田信長はこの戦国の世という時代にあって、おそらく唯一、未来から来た、なんていう突拍子もないことを受け入れてくれそうな人でもある。宣教師に、地球儀を見せられ、地球は丸いという概念を一瞬のうちに理解した、という逸話も残っている、日本以外の外の世界にも目が向いている、新しいもの、珍しい物好きである、発想が超独特である、など...日本の武将の中では一番、自分が未来人なんて話を怒らずに聞いてくれそうな素地はある。

 

 

信長のシェフ 1巻 (芳文社コミックス)

 

ちっとも映画の話にならないじゃないか、と思われるかもしれないが、映画のほうは確かに主人公は ”本能寺の変の前日“ に過去に戻り、織田信長と出会うのであるが、結局、この映画は、主人公の女の子の人生目標探しの旅であり、筆者が思うには、わざわざ戦国時代に来て、信長に会わなくてもよさそうな気がする。信長の描かれ方も浅く、せっかく信長を出すなら、もっと深く、深く、掘り下げて描いてほしかった、森蘭丸も登場するのだから、信長の登場シーンはもっと面白くできたのじゃないか、とも思った、つまり、”本能寺“ ホテル、というタイトルの割には信長と戦国時代の描かれ方が物足りないのである。

 

文句ばかり言っていると思われるかもしれないが、筆者は織田信長、大好きであり、”本能寺“ と来たからには、織田信長に期待してこの映画を観た、なので、悪くないところもあるのである、例えば、ホテルが、もう少し厳密にいうと、ホテルのエレベーターが現代と過去とをつなぐ入り口、タイムマシンの役割を果たすという着想は面白かった、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が初めて公開されたころ、タイムマシンが車、デロリアンであるという着想が新鮮で、話題にもなったと記憶する、それと同じ意味で、エレベーターもよかった。

 

といわけで、今回は、大好きな、織田信長映画、ということもあり取り上げてみた。悪くないところも、つまり、いいところもないって言うわけではないのだが、映画への期待が大きかっただけに、その反動の物足りなさは割合と大きく、今回は実に残念であった、と言わざるを得ないのでした。

 

 

 

映画  ヘイトフル・エイト    クエンティン・タランティーノ 監督

 

ヘイトフル・エイト(字幕版)

 

”ミニーの紳士服飾店“ というのは、実際の服飾店というよりも、きっと、今で言うなら、高速道路のサービスエリア、長距離運転してきた車が、途中一休みして、ドライバーや乗員が一服したり、食事したり、時には、車にガソリン入れたりする場所といえる。映画「ヘイトフル・エイト」の舞台は、南北戦争終結直後のアメリカであるので、車ではなく、駅馬車のサービスエリア、駅馬車の御者や乗客が一休みするところ、馬車を引く馬を一休みさせる場所、であると考えなくてはいけない、実際、映画での描写もそれに近い。

 

そして映画の舞台はこの ”ミニーの紳士服飾店“ であり、この服飾店内で起こる、様々な事件、陰謀、人間模様(?)、そして、殺戮が、この映画を通して描かれる。さすがクエンティン・タランティーノ監督の映画だけあって、殺し合いのシーンでは、迷いも、情けも、容赦もなく、次々と死んでゆき、死体の山。もともと、映画の冒頭から死体の山である、何しろ、主人公ともいえる、サミュエル・ジャクソン演じるマーキス・ウォーレンは賞金稼ぎである、また、駅馬車に同乗しているカート・ラッセル演じる、ジョン・ルースも賞金稼ぎで、こちらは死体を運びはしないが、捕まえたお尋ね者が縛り首にされるのを見届けることをモットーにしており、そんなお尋ね者、今回は女、を護送中である。そんな、賞金稼ぎ二人、捕らえられたお尋ね者の女、そして途中、偶然にも馬車に拾われることになる新任保安官と馬車の御者、この5人が ”ミニーの紳士服飾店“ に到着して、物語は展開し始めるのである。

 

今、5人と書いたのであるが、この映画のタイトルは「ヘイトフル・エイト」、つまり、「ヘイトフル・8」、「The Hateful 8」なのであり、実はこの映画では ”数字” がある意味を持っているのではないか、と筆者は考える。この映画が、クエンティン・タランティーノ監督、8作目の映画、ということもあるらしいが、「The Hateful 8」、日本語にしてみると、「憎むべき8人」、または、「悪意ある8人」「忌々しい8人」というタイトルになり、観ているほうは当然、この ”8人“ って、いったい誰なの? と、思ってしまうことは想像に難くなく、なので筆者は考えてみた、この ”ヘイトフル 8人“ を。

 

  ”ミニーの紳士服飾店“ に集った面々は、主人公と思える賞金稼ぎ二人と新任保安官も含めて、皆、一癖も二癖もありそうな人物ばかりである、この中の誰がタイトルにもある ”ヘイトフル 8人“ であるか、考えていくのは実はなかなか、骨の折れる仕事である。映画のポスターには8人の人物がいるのであるが、映画を観ると、素直にこの8人が ”ヘイトフル 8人“ である、と、決めつけることはできない展開になる。しかも、原題には ”The” が付いており、 ”The” が付くということは、”きっかり8人” でなくてはならぬ。 

  たとえば、この服飾店に集まった人々の中で、確実にこの8人から除外されると考えられるのは、物語の冒頭登場して、賞金稼ぎら4人を服飾店まで連れてきた駅馬車の御者、O.B.ジャクソンだけであり、この御者は毒入りのコーヒーを飲んで、あっけなく死んでしまう。映画では、この御者が先に述べた4人を服飾店に駅馬車で連れてきただけであり、特別、この ”8人“ に入るような、”憎むべきこと“ ”悪意あること“ ”忌々しいこと“ などに手を貸したり、手を染めている事実はない。

 

  それ以外の人物と言えば、新任保安官であると本人が言っていても、果たしてそれが真実かどうか疑わしかったり、口数の少ない、元南軍将軍のサンディ・ズミザース老人は大の黒人嫌いで、南北戦争中に多くの黒人を虐殺していたり‥‥と、この ”8人“ から除外できそうな人物も、実は…という展開になるのだ。受賞は逃したが、ゴールデングローブ賞では脚本賞にもノミネートされている映画である、この ”8人“ 探しで以外でも、もちろん、ストーリは面白い。先の読めない、タランティーノ監督の才気あふれる脚本で撮られた映画である。

 

  南北戦争終結直後の話、ということもあってこの映画では、人種差別問題も含めて、何がいいのか、どれが悪いのか、おそらく映画を見る人によって、その、判断は、もしかしたら、人それぞれ、微妙に判断も異なり、又、判断つきかねる、なんていうシーンもでてくるかもしれない。ということで、先ほどから言っているように ”この8人“ がどの8人であるかを判断するのは難しい。これからこの映画を観ようと思っている方は、そんなことなども、頭の片隅において、”8人探し” を試みるのもいいかもしれない。そうすると、この映画の楽しみ方も少々違ってきて、なお一層この映画を楽しめるのではないのだろうか、と思う。タランティーノ・ファンではなくても、一度見てみるのも悪くないかもしれないね。