Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画  存在のない子供たち     ナディーン・ラバキー 監督

存在のない子供たち(字幕版)

 

 

息子が両親を訴える、その罪状は? と問われ、息子は答える、「僕を生んだ罪」と。何やら、衝撃的なオープニングの映画なのである、しかもこの息子は12歳か14歳くらいの年はもいかない少年であり、人を刺した罪で逮捕されている。12歳か14歳といって、はっきりした年齢を書くことができないのは、この少年の出生届が出されておらず年齢がはっきりわからない、日本で言ったら、戸籍のない子供、ということになろうか、とにかくも、自分が何者であるのか証明できる、証明書を持たない子供、なのである。

 

そんな少年ゼイン君がこの映画の主人公であり、映画はゼイン君が逮捕されるに至るまでの、彼の劣悪で、悲惨、かつ、絶望的な境遇を回想という形で物語ってゆく。絶望的かつ将来への希望ゼロの子供たちが、この映画にはまだまだ登場する、何も、ゼイン君一人だけではない。ゼイン君の姉妹、しかり、ゼイン君を助けてくれた女性の赤ちゃん、しかり。この赤ちゃんは、今度は、その母親の不幸な境遇により、なんと、ゼイン君が面倒を見る羽目になる。細身で、小柄なゼイン君がこの赤ちゃんを、抱っこしたり、おんぶしたり、手製のカートにいれたりして、スラム街を歩き回るシーンは、胸が痛みすぎる。二人の運命のあまりの絶望感に言葉も出てこない、と言ったらいいだろうか。

 

貧困をテーマにした映画、本は多々あり、それぞれの作品、書物が様々な角度から社会の貧困をとらえ、映像化し、又、書物としてきた。そして、今回の映画「存在のない子供たち」のメインテーマは、出生証明書がない子供の運命である。現実の世界においても、世界ではなお一億6.600万人の5歳未満の子供が出生証明書を持たないという、気の遠くなるような数。日本においても、約800人もの戸籍を持たない子供が存在するという。出生証明が届け出されないとどうなるかということは、この映画で描かれている通り。教育は受けられない、社会保障は適応されないなどなど、まさに映画のタイトル通り ”存在がない“ ものとして扱われる。

 

が、そんな言葉を絶するほどの絶望的状況の下、数々の仕打ちに打ちのめされながらも、ゼイン少年はたくましく生き抜いていく、映画ではゼイン少年を見舞う不幸とともに、そんなたくましいゼイン少年の姿も描かれる。たくましい精神なのであるが、観てる方は痛々しく、そのどう考えても報われぬ、救いのない勇気とわかってしまうゆえに、さらなる絶望感を見ているほうは感じる。

 

そして、映画は最初に戻る、この希望ゼロの壁を打ち破るためにゼイン少年は知恵を絞り、一つの突破口を開こうとする。ここら辺がこの映画の救いになるか、ラストでは、絶望的、希望ゼロの分厚い壁に、ゼイン君が小さな、小さな穴をあけたところで、エンドとなる。小さな、小さな穴であるが、この穴が、やがて鉄のカーテンのごとき壁を崩す、大きな穴となることを期待させる。また、そうなることを映画を観ている観客は願わずにはいられない。

 

レバノンの問題を描き、レバノンだけにはとどまらぬ、世界中、日本においても存在する社会問題を描いた秀逸な映画。筆者が観ることを勧められたように、筆写も皆さんに勧めたい‥‥そんな映画かな。

 

 

 

 

 

映画  続・夕陽のガンマン       クリント・イーストウッド  主演

続 夕陽のガンマン MGM90周年記念ニュー・デジタル・リマスター版 [Blu-ray]

「続・夕陽ガンマン」、若き日のクリントイーストウッドが主演する、マカロニウエスタン、前作「夕陽のガンマン」に続く、2作目である、が、このタイトルは良くない、と、筆者は思う。前作に続く2作目であるので、しかも、前作がヒットしたので邦題を ”夕陽のガンマン“ に ”続“ をつけたのかとも思われるのであるが、

”続“ と付いていても、内容は全く前作と関係がない、関連があると言えば、準主役として登場するリー・ヴァン・クリーフが前作から引き続き登場しているくらいのものである。が、ストーリが全く違うのであるから、その役どころも前作とは全く異なる役柄である。原題をそのまま直訳した方が、まだ、映画の面白さを伝えているのではないか、と思えてしまうのである。

 

では、その原題は何というか?原題は英語で、「The Good, the Bad and the Ugly」、訳してみると「いい奴、悪い奴、卑怯な奴」とでもいうか、「善玉、悪玉、卑劣漢」というような訳もあるようで、映画ファンであるなら、もしかしたら皆さんもうご存じの原題であるやもしれぬ。こちらの原題のほうが、この映画はより一層楽しめるのではないか、と考えたりもするのであるが、原題の直訳では、うまい邦題にならないと配給会社は考えたのであろうか、とにかくも、この映画は「続・夕陽のガンマン」と、落ち着くこととなった。

 

映画のタイトルが「いい奴、悪い奴、卑怯な奴」なのであるから、このマカロウエスタンには3人の主要なガンマンがでてくることになる。クリント・イーストウッドももちろん悪くはないのであるが、中でも主役のクリント・イーストウッドを食って、映画の中で存在感を示し、主役のイーストウッドをしのいでいる、と思われるのは、なんといっても”卑怯な奴“ のガンマン、テュコを演じる、イーライ・ウォラックである。イーライ・ウォラック演じるテュコは、映画の始まりから冴えない役回りなのである、極悪の冴えない男のままで映画は進行するのかと思いきや、やがて、この冴えない男が、超、超、早撃ちのガンマンであることが分かり、眼光も鋭く、その顔もキリリと引き締まってきて、非情な極悪ぶりをたっぷりと見せてくれる。

 

おそらく、この極悪ぶりだけがこのテュコの性質であるならば、クリントイ・イーストウッド演じる、或る意味、テュコの相棒でもあるブロンディーガンマンは、テュコを見捨て、テュコから離れていくのが必然であろうと思われるのであるが、この極悪超早撃ちガンマンのテュコにはテュコのストーリーがあり、それを知るとブロンディーのみならず、観ている観客でさえ、この ”卑劣な奴 (The Ugly)“ テュコもあながち憎めない奴ではないか、と思わせられるのである。

 

また、この映画の時代設定は、アメリ南北戦争の最中であり、映画の中では、北軍、南軍の兵士たちが戦い、殺戮しあう戦場のシーンもあり、所かまわず死体がゴロゴロしている、なんていうシーンもでてくる。そして、こちらも情け容赦なく、敵を射殺していくガンマン、自らも常に死と隣り合わせの生活を送っているガンマンのブロンディに “こんな犬死はひどいな” というセリフを言わせる。彼らのような非情のガンマンですら、戦争を目の当たりにしては、その愚かしさ、残虐さを感じるのである。戦争の大義がどんなに立派なものであったとしても。

 

この “いい奴、悪い奴、卑怯な奴” の3人は、北軍の兵士が隠したという、20万ドルという大金を求めて目的の地へと向かっている、ラストは当然その20万ドルが隠された地での、3人の対決ということになる。そして、この対決において、そして、さらに、ラストのラストのあるシーンにおいても、この3人の ”いい奴、悪い奴、卑怯な奴“ の性質と言うか、特徴は、いかんなく発揮されて映画を盛り上げ、面白くする、笑わせてくれたりするのである。

 

クリント・イーストウッドまだ、現在のような大スター、大監督になる前の、本当に若きイーストウッド、画面から聞こえてくるイーストウッドの声さえも、最初は、何か耳になじまず、ピンとこない気がしていた。声が若いといったところか。そんな若き日のイーストウッドを見ることができるのもいい。なかなかいい、マカロニウエスタン映画、と思う次第。

 

 

 

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映画 Dear フランキー     ショーナ・オーバック監督  

Dear フランキー [DVD]

 

 

読唇術の世界チャンピョン、そんな読唇術の世界大会なんて実際にあるのかしら、不思議に思ってググってみたが、それらしき大会についてはヒットしなかった。ということは、これは劇中の母親が勝手に作った話であるのか? そうかもしれない、そうかもしれないのだが、この映画の主人公である、難聴という障害を持つ少年、フランキーは実に巧みに、ひとの唇の動きを読むのである。この読唇術に秀でたフランキーの能力は、ラストのフランキーの一言に説得力を与え、ここでまた、映画を観ているものを感動させる。

 

この物語は、主人公の少年フランキーとその母、とフランキーの祖母が、何やら慌てふためいて引っ越しのために車を走らせ、新しい家に到着し、その地で新しい生活を始めるところから始まる。母親はフランキーに一つの嘘をついてる、そしてその嘘がフランキーにばれてしまうことを、ひどく恐れている。なぜなら、母親の嘘はフランキーを幸せにしているのだから。そんな、嘘が、フランキーにばれてしまいそうになる、嘘の暴かれることを恐れた母親は、実に、奇想天外な方法でこの問題を解決しようとする。ここら辺が、この映画のポイントとである。このあたりのストーリー展開において、筆者は、有名なフランスの作家、モーパッサンの短編、「シモンのとおちゃん」を思い起こすのであるが、監督の手腕はストーリーをさらにひねりにひねり、この映画を “いい” 映画にしているのである。

 

フランキー少年はたくましい、新しく転入した学校では、難聴というハンディのために、からかわれたり、いじめられたりするのではないか、と監督は観ている者に思わせるのであるが、いじめっ子になりそうであった少年リッキーとは友達になり、リッキーはフランキーの机に、英語で ”難聴“ と書いて嫌がらせすると、その単語のスペリングミスを直してやるシーンなどは、ユーモラス。フランキーは地理が大得意、かたやリッキーは大の苦手、そんなところでリッキーはフランキーに頭があがらない。そこにもう一人、女の子の友人も加わる。そんな、フランキーの友人関係も、この映画にスパイスを利かす、いい感じ。

 

この映画はイギリス映画であり、イギリスの労働者階級の家庭を描いている。イギリスの労働者階級や貧しい人々に焦点を当てた社会問題を描くという点においては、ケン・ローチと言う優れた監督がいるのであるが、この映画「Dear フランキー」の、ショーナ・オーバック監督の腕も冴えに冴えており、社会問題を描いているのであるが、そんな社会に生きる障害を持つ子供に悲壮感などは全くなく、どこまでも、前向き、未来志向、スマートなのである。何しろ、読唇術世界チャンピョンなのだから。そして、そんな描写がケン・ローチ監督と一線を画しているように思える、もっとも、筆者もケン・ローチ監督の作品をすべて観ているわけではなので、異論はあるやもしれぬ。

 

フランキー少年が全編を通して、前向き、未来志向でいられたのは、やはり、母親の嘘のおかげであると感じる、母親が、その秘密を守り通すために、あれほどの奇想天外な方法を選んだのには、ひとえに、フランキー少年の心をつぶしたくないという一心であったと思われる。そして、ラストはそんなフランキー少年にも、母親にも、過酷な状況であったにもかかわらず、ハッピーな結末となるところに、この映画の魅力があると感じる。

 

映画がエンドとなった後にも、観客はフランキー少年と母親のその後を想像することができ、ストーリーは語られないのであるが、再び、ハッピーな気持ちにさせられるという効果もある。イギリスの一つの社会問題を描いた映画ではあり、重さも十分に感じられる映画ではあるのだが、先にも書いた理由により、ラストに暗さはない、前向き、未来志向のラスト、と言えるのではないか。

 

とてもいい映画、是非、たくさんの方に見てほしい!

映画 暗くなるまで待って  オードリー・ヘップバーン 主演/    テレンス・ヤング 監督

暗くなるまで待って [DVD]

 

“華やかで清純な妖精” 、「ローマの休日」であるとか、「麗しのサブリナ」、「パリの恋人」など、ヘップバーンの映画からうかがえる、ヘップバーンのイメージ、「ティファニーで朝食を」であるとか、また違った一面を見せるオードリーであるが、”妖精のような可憐さ“  は変わることなく、ヘップバーンが主演するどの映画を見ても、観る者は彼女の美しさにため息をつくのではなかろうか。そんな美しくファッショナブルなオードリーが演じるのは、盲目の主婦であり、その役どころには、”華やかさ“ も ”可憐さ“ も ”ファッション性“ もないのであるが、オードリー演じる盲目の主婦には、なんというか、凛とした清楚さが感じられ、盲目ながらも、世界チャンピョン級の盲人になろうと、また、彼女の夫も彼女を甘やかすことなく、彼女のために厳しい態度をとったりするのである。

 

夫が海外の空港で、見知らぬ女性から人形を預かってしまったために、この主婦は事件に巻き込まれることになる、彼女の家に、怪しい男たちがやってくる、が、目の不自由な主婦スージーは、彼らのヘタな芝居に騙される、だまされてしまうのであるが、彼女もなかなか手ごわいのである。暗闇の世界に生活している者だけに研ぎ澄まされる感覚と知恵によってスージーは、男たちの三文芝居の怪しさに気づいていく、気づいていきながら、犯人の裏をかいていく、スージーの知恵は見ていて気持ちがいい、目が不自由だからと言って、健常者が侮ることはできないのである。

 

監督は初期の頃の007シリーズを撮った、テレンス・ヤング監督であり、チャールズ・ブロンソン三船敏郎アラン・ドロンの3人のビッグスターを主役にした、「レッド・サン」なども手掛けている。007シリーズを撮った監督が、007シリーズにでてくるボンド・ガールとは180度違ったタイプの女性、オードリーを主人公に添えて、アクション全くなしの、静かなサスペンスを作った、と言いうところがこの映画のみどころと言えなくもない。

 

また、目の不自由な女性と言ってすぐに思い浮かぶのは、三重苦であったヘレン・ケラーであり、三重苦というハンディを背負いながらも、著作を出版し、世界各地を公演して回ったヘレン・ケラーのエネルギーと勇気を思うとき、この映画「暗くなるまで待って」のスージーヘレン・ケラーと同じ勇気を持って、勇気あればこそ、あの信じられないような難局を見事に乗り切って、ラストのシーンへとつながるのではなかろうか。

 

一方、この映画で面白いと思ったのは、怪しい男たちの中で、スージーの夫の友人を演じている男が、最後にはスージーの勇気と知恵に脱帽して、本来の彼らの目的を果たさずとも、スージーのもとを去ろうとするところであり、どうやら、もともと根っからの悪人でもなさそうなのであるが、彼のたどる運命はやはり、自分のとった行動の報を受ける、と考えられる。どんな運命であるかは映画を観てほしい。

 

また、同じアパートに住む少女、グロリアも忘れてはいけない存在で、時に情緒不安定でヒステリーを起こすのであるが、彼女もスージーを愛しており、スージーは夫にご近所さん、果ては、怪しい男たちの一人からも好感を持たれるのである。そんな人々の心を打つもの、それは、やはり、目の不自由なスージーの生きようとする真摯な姿勢にあるのではないかと思われる。

 

映画「暗くなるまで待って」では、スージーは暗闇を作ろうと必死になり、怪しい男たちは、明かりを求めて必死となる、その両者の必死さが、映画のクライマックスでぶつかり合い、見ている観客をドキドキさせる‥‥ということで、この映画、本来は、部屋を真っ暗にしてみるならば、そのサスペンスも十分堪能できるのではないか、と思うのでした。

 

映画 Mr. & Mrs. スミス    ブラッド・ピット   アンジェリーナ・ジョリー    主演 : 悪くないけれど残念な映画

Mr.&Mrs.スミス プレミアム・エディション [DVD]

 

英語のSmith (スミス)と言う姓は、日本語で言うと、鈴木さんであるとか、佐藤さんなどの姓と同じく、実にたくさんのSmith を姓に持つ人々がおり、別に鈴木さんであるとか、佐藤さんが、何か悪いというわけでは決してなく、単に、鈴木さんであるとか、佐藤さんと言う姓は、実に一般的で、普通であり、ごくごく、巷では特別珍しい姓ではない、というこを確認しておきたい次第であり、そして、先にも行ったように、全く同じことが英語の姓Smith(スミス)さんにも言えるのである。

 

そこで、この映画のタイトル、「Mr. & Mrs. スミス」、日本語に意訳すると ”鈴木さんの旦那さんと奥さん“ とでもなろうか、そして、このタイトルから日本人が直感的にイメージするのは、ごくごく普通に平凡に生活している、ご近所の鈴木さん、ではないかと推察する。同様に、アメリカ人がこの映画のタイトル「Mr. & Mrs. スミス」ときいた時にひらめくイメージというのは、まさに、日本人が ”鈴木さんの旦那さんと奥さん“ というセリフを聞いたときにひらめくイメージとそう変わりはないであろうとこちらも推察される。

 

が、しかし、その “鈴木さんの旦那さんと奥さん” が、つまり、映画では、”スミスさんの旦那さんと奥さん“ が、ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーである、という事実を見せつけられるとき、ああ、この ”鈴木さんの旦那さんと奥さん“ は、一筋縄ではいかない、どうやら、二人の生活は波乱万丈に展開し、この夫婦は一癖も二癖もある旦那と奥さんに違いないのでは、とまたしてもひらめき、いたって一般的な ”Mr. & Mrs. スミス(Smith)” のイメージとは真逆のブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーの2大スター、この実に大きなギャップが、自然、映画への期待感へとつながる、という按配なのではないだろうか。

 

実際、映画を観ればわかってもらえるのだが、この ”スミスさんの旦那さんと奥さん“ は、とんでもない旦那と奥さんであることが、映画のほぼ最初の頃にわかってくる、わかってしまえば、その後の展開は、もう、アクションに次ぐアクション、駆け引き、だましあい、さまざまな戦闘テクニック、など織り交ぜて、一気にラストへと突っ走る、ブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリーも、不死身とも思える戦闘テクニックと戦いを映画全編を通して、又、最後のクライマックスでも見せるのである。

 

こうして、ひょっとしたら我が家の顔なじみのお隣さんかもしれぬ ”スミス夫妻“ の冒険は終息し、結婚5年を迎え、倦怠期に入りつつあった旦那さんと奥さんは、見事、夫婦の危機を乗り越え、再び平和な日常が戻ってくる‥‥と思うのだが、平和かどうかは観ている方の判断に任せたいと思う。少なくとも、この映画で主役を演じた二人の俳優は、実生活ではこの後、この映画をきっかけにウェディングベルを鳴らす、もっとも、何年かの後には、泥沼の離婚劇を演じることになるのだが。

 

最後に、世の中夫婦で同じ仕事をしているカップルは星の数ほどいるのであるが、ミステリファンの筆者としては、どうしても、思い出してしまうのがトミーとタッペンスという、おしどり探偵の物語であり、これは、ミステリーの女王と言われる、アガサ・クリスティーの生み出した探偵であり、彼らの場合は “Mr.& Mrs. ベレスフォード(Beresford)“ となる。この二人の活躍においては銃撃戦等のアクションはなく、クリスティーのミステリーらしく、ウィット、機知にとんだ事件展開となり、筆写は気に入っている ”Mr. & Mrs. ベレスフォード“ なのである。”Mr. & Mrs. スミス“ でアクションてんこ盛りの世界にひたった後には、こちらの “Mr. & Mrs.ベレスフォード” で、ミステリーの世界に足を踏み入れてみるのも悪くないのでは、と感じる。

 

さて、映画のほうは、先ほどからも書いている通り、アクションに次ぐアクションであるが、どうも筆者がしっくりこないのは、映画の最初と最後で登場する、精神分析医のシーンであり、或る意味、最後は映画の落ちになっているのであるが、どうも、もっと違うシーンで落とせなかったのか、と思ってしまったりして、残念ではある、と、言うことで、今回この映画、面白いのだが、悪くないけれど残念な映画、としたいと思う。

 

 

映画  ブルース・ブラザース    ジョン・ベル―シ   ダン・エクロイド  主演

ブルース・ブラザース (字幕版)

 

黒ずくめのスーツに黒のサングラス、このスタイルは10年以上の時を経て、映画「メン・イン・ブラック」に引き継がれているのであるが、映画「メン・イン・ブラック」は、宇宙人が実は、すでに、地球で地球人と共存している、という設定に基づいたSF映画であり、このジョン・ベル―シとダン・エクロイドの二人を主演とした、コメディ映画「ブルース・ブラザース」とはまったくジャンルは異なり、元祖黒ずくめのスーツにサングラスの二人組は、コメディアンの本領を発揮して、この映画で、実にばかばかしくも、おかしくて、奇想天外な物語を観る者に見せてくれるのである。

  

映画「ブルース・ブラザース」の黒ずくめ二人組は、タイトルからも推察できる通り、兄弟、ブラザース、であり、ジョン・ベル―シ演じる、兄、ジェイクが刑務所から出所する、ダン・エクロイド演じる、弟、エルウッドがその兄を迎えに来る、というところから物語は始まる。主役のジョン・ベル―シとダン・エクロイドは一流のコメディアンであるので、笑いのツボはしっかり押さえており、弟、エルウッドに車を運転させたが最後、或る些細なきっかけから、二人の車による逃避行が始まり、この逃避行がこの映画の一つ目のツボとなる。

 

また、ジェイクには彼女がいたようで、結婚の約束をし、実際に結婚式を挙げるところまで行くのであるが、その肝心の結婚式に、ジェイクが現れなかったかという理由により、恨みは骨髄に達し、その復讐をせんとするストーリーも展開される。この流れも、やはり、この映画のツボの一つであり、映画の後半にあって、ジェイクの女たらしぶりが描かれることになって、笑えるのである、ここは、劇中、ただ一度だけ、ジェイクがサングラスを取るシーンなのである、もしかしたら、貴重なワンシーンでもあるか。

 

さらに、この主演のジョン・ベルーシとダン・エクロイドはコメディアンであると同時に、ミュージシャンでもあり、R&B/ブルースの音楽バンドのメンバーでもある、実際、映画の中では、彼らの音楽的才能もいかんなく発揮される。ある理由のために、彼らは、音楽バントの再結成に立ち上がり、見事バンドは再結成されて、映画の中では、このバンドのキレる演奏を楽しむことができる、加えて、この主役二人は、うたって踊り、その歌も、踊りも、なかなかのもので、見ていて目を見張る、聴いていて、耳をそばだてる、思わず、拍手して、ブラボーと叫びたくなると言ったら、大袈裟だろうか。

 

そして、又、さらに言うならば、あるシーンにおいては、まるでミュージカル映画のごとく、出演者たちが歌って踊り始める、これらのシーンもなかなかのもので、バンドのキレッキレの演奏同様、キレッキレの歌とダンスを披露してくれて、こちらも、拍手して、ブラボーと叫びたくなるようなシーンなのである。

 

そんな、いくつものツボ、そう、笑いのツボ、称賛のツボを映画のあちらこちらにちりばめて、ジェイクとエルウッドは映画のラスト、クライマックスへとひた走る…‥そんな、クライマックスとラストは、映画を観て楽しんでほしい。定石と言えば、或る意味、定石すぎるラストへと向かうの展開なのであるが、そのスケールは大きくて、あっぱれ、と言うか、やっぱり、やるなあ、という感じ。

 

ただ、一つ、この映画を観終わって筆者が残念だったことは、劇中で再結成されたバンドのメンバーと客演ミュージシャンの顔ぶれが実に豪華なことでもこの映画は話題となったということであるが、筆者が知っていた豪華な顔触れというのは、レイ・チャールズ一人であった、ということ、まあ、レイ・チャールズだけでも、大物ミュージシャン出演している、と思ったりしたのですが‥‥知っている人が観れば、きっと、もっと楽しめたであろうと感じる。

 

こんなふうに、この映画の ”ツボ“ は、結構、数限りなくあるわけで、筆者のように、R&B/ブルースに詳しくなくても、どこかのツボでヒットできることは間違いないと思う映画。ぜひ一度、観て、”驚いて“ 笑ってほしいと思う次第。

映画 「ホビット 思いがけない冒険」   マーティン・フリーマン 主演   :悪くないけれど残念な映画

ホビット 思いがけない冒険 (字幕版)

 

スペース・ファンタジー、映画「スター・ウォーズ」のシリーズが全9作続き、宇宙を舞台に善と悪が衝突する物語がファンを熱狂させたこと、また、シリーズが完結してもなお、ファンを熱狂させ続けていることは、改めて言うまでもなく、世の映画ファンの承知していることであり、同様に、このイギリスの作家、トールキンの生み出した、ファンタジーの世界もまた、映画「スター・ウォーズシリーズ」と同様に、魅力的に、映画ファンを引き付ける、と言ってもいいのではなかろうか。

 

映画「ホビット 思いがけない冒険」は、前三部作の「ロード・オブ・ザ・リング」の前日譚というもので、映画「ホビット 思いがけない冒険」には、当然のことながら、映画「ロード・オブ・ザ・リング」でおなじみのキャラクターの顔を見ることができる。映画は、失われたドワーフたちの王国を再び取り戻すために、ドワーフとその仲間たちが、王国目指して旅していくのであるが、そう簡単に目的地にたどり着くことができるわけはなく、様々な苦難に出会う物語である。ドワーフというのは、いわゆる ”小人“ であり、ファンタジーの劇中では通常より身長の低い種族、ということになっている。BBCのTVドラマ「シャーロック」の、ジョン・ワトソン役でおなじみの、マーティン・フリーマンが主役を務め、マーティン・フリーマンホビット族の青年、ビルボ・バギンズ役で、ドワーフたちと行動を共にする。ホビット、という種族も、小柄であり、どうやら、ドワーフと同じくらいの身長、ことによったら、もっと小柄の種族、ともいえる。そこに、前作からのお馴染みの魔法使い、ガンダルフが加わり、総勢、13人のドワーフホビット一人、魔法使い一人、15人の旅の行方だ。

 

彼らの旅の行方は一難去って、また一難、トロルやらオークやらゴブリンといった、巨人であったり、獰猛かつ残虐な種族であったりで、彼らの行く手を阻む者は後を絶たず、その宿敵たちとの追いかけっこがこの映画の見どころともなる、見どころともなるのだが、前三部作「ロード・オブ・ザ・リング」から、数えて4作目ともなると、やはり追いかけっこにも多少新鮮味が欠けてしまうところは、否めず、それでも、スピード感をだして、特撮も駆使して、なかなか見せてくれるのではある、が、気持ち、退屈感を感じてしまったりもするのである。

 

また、ラスト近く、谷底に落ちそうな木の枝にしがみついている魔法使いのガンダルフが、同じく木の梢にとまっている蝶に気づいて、蝶を指先にうつし、ささやくようにして空へ返すシーンを見た筆者は、ドワーフたちがこの絶体絶命のピンチから救われるためには、巨大な蝶であるとか、空飛ぶ魔法の絨毯であるとか、空飛ぶ物体がでてくるしかないのだろう、と思った。おそらく、映画を観ている観客も、ここに至って、筆者と同じことを、思うのかもしれない、すると、案の定な展開となり、今にも崖っぷちから奈落の底へ落下しそうな木にしがみついている、ドワーフたちを救出してくれる、ここら辺は、意外性に欠ける、先が読めてしまう、という点において、監督はもう少し工夫して、頑張ってもよさそうなものではなかったか、と思ったりもする。

 

  さらに、思うに、ガンダルフは魔法使いなのだから、もっと魔法を気前よく使って仲間の窮地を救えなかったのか、であるとか、ホビットのビルボと前三部作にも登場するゴラムという不気味な生物との、なぞなぞ合戦は一体何だったのか、であるとか、何かのギャグのつもりで挿入されたシーンか、と筆者は首をかしげたところである。

 

  こんなふうに、いろいろ思ったり気づいたところはあったのであるが、総合してみると、筆者はこの映画を気に入っており、ゴブリンたちの人海戦術のごとき圧倒的な数でドワーフたちを追い回すシーンは悪くはなく、妖精種族と思われるエルフや彼らの住む谷のシーン、森に住む魔法使いが描かれるシーンなども好きであり、岩石人間が岩を投げ合いながら喧嘩しているシーンも面白かったりして、なかなか悪くもないのである。

 

  同じファンタジーと言っても、映画「ホビット」と映画「スター・ウォーズ・シリーズ」のスペース・ファンタジーとはやはり、当然ながら違っていて、後者では、宇宙船がでてきて、宇宙船チェイスができるぶん、超スピード感のある映像を見ることができ、よりテンポの良いストーリー展開をみることができる、その点において、後者は有利(?)な立場にあるといえなくもない。

 

  が、この映画「ホビット 思いがけない冒険」も、前三部作の「ロード・オブ・ザ・リング」も、トールキンが創造した、不思議で、やはり、ワクワクするような世界を活字から離れて、映像として見せてくれるという点において、素晴らしく、筆者はこの後も、まだ未見である続編の第2部「竜に奪われた王国」も第3部「決戦のゆくえ」も、見るつもりでいるのである。

 

  見るつもりであるのだが、先にも書いたように、いろいろ注文つけたくなってしまうということで、今回は、悪くはないけれど残念な映画、としようと思う‥‥としようと思うのであるが、このトールキンの世界、まだ未見の方は、一度体験してみることをお勧めしたい。「ホビット」も「ロード・オブ・ザ・リング」も、本来イギリスの児童文学であるが、イギリスの児童文学というのは、簡単に子供向け、と決めつけてはいけない、なかなか侮れないものなのである。

映画   第十七捕虜収容所       ビリー・ワイルダー  監督

第十七捕虜収容所(字幕版)

 

捕虜収容所を描いた映画、と言ってすぐに頭に浮かぶのは、映画「大脱走」であり、スティーブ・マックイーンがバイクをとばして、ドイツ兵から逃走するシーンであるとか、何度も脱走を試みては失敗し、独房にいれられ、独房の壁を相手にキャッチボールするシーンであるとか、お馴染みなのである。今回、語っていくのは、その映画「大脱走」よりも10年前の1953年に制作された、あのロマンティック・コメディーを撮らせたら一級の腕と言ってもよい、ビリー・ワイルダー監督による映画「第十七捕虜収容所」である。

 

同じ捕虜収容所の映画ということもあって、若干似ているシーンもなくはない、映画「大脱走」による、映画「第十七捕虜収容所」へのオマージュとも考えられるかもしれない、とはいえ、映画「大脱走」では、主にイギリス人が集められた収容所の話であるのに対して、映画「第十七捕虜収容所」のほうは、全員、捕虜となっている兵士はアメリカ人、という設定になっている。前者が、収容所の生活よりも、どちらかというと、脱走の準備、脱走のためのトンネル堀など、タイトルが示すとおり、あくまでも “脱走” に重点を置いて撮影されたと思われるのに対して、後者は収容所内で起こる事件、収容所内での生活の描写に重点が置かれている。

 

その ”第十七捕虜収容所“ で事件は起きる、舞台となる収容棟にドイツ軍に内通しているスパイがいる、というところから物語は始まり、収容所内での生活が描かれるのと並行して、このスパイ探しもメインのストーリーとなってくる。若き日のウィリアム・ホールデンがいい役を演じている。映画での最後のスパイ探しのクライマックスでは、ウィリアム・ホールデン、カッコいい、なんて思っていたら、アカデミー賞で主演男優賞を受賞していた、さもありなん。また、若き日のピーター・グレイブスも観ることができる。ピーター・グレイブスと言えばTVドラマ「スパイ大作戦」での、若干、渋さを増したピーター・グレイブスがお馴染みだったので、この映画での、実に若い、ピーター・グレイブスは新鮮であった。

 

ドイツ軍による、捕虜の取り扱いは、ジュネーブ条約にきちんとのっとっているかと言えば、映画の中では必ずしもそうではないのだが、映画のラストのほうでは、収容棟内でのクリスマスパーティーの様子なども描かれる、捕虜収容所内のこととはいえ、アメリカ兵たちは実に楽しそうにクリスマスを祝っていた、捕虜とはいえ、このような自由は許容されていたのだな、と思った。

 

ひるがえって、日本にも、もちろん、戦時中には捕虜収容所があった、第一次世界大戦時にあった、徳島県鳴門市大麻町の捕虜収容所には、ドイツ人の捕虜が収容されていて、かなり自由な生活が認められていたという、その自由な生活の中でドイツ人の捕虜が取り組んだことの一つに、音楽活動があり、彼らが日本で初めてベートーベンの交響曲第九番を演奏したという、地元の住民との交流も深かったようで、戦争が終わってドイツに帰国した後にも、元捕虜と住民の交流があったらしい。

 

日本の捕虜収容所、などと言うと、筆者は、第二次世界大戦中の特高のイメージが強かったので、鳴門市大麻町の捕虜収容所のことを知った時には、日本でも戦争捕虜の取り扱いについては、捕虜の人権を尊重した扱いがなされていたのであったか、と、実は意外感に打たれたのであった。まあ、第一次世界大戦と、第二次世界大戦、という違もあり、大麻町以外の捕虜収容所のことは、詳しいわけでもないので、この収容所については、と付け加えざるを得ないのであるが。

 

さて、映画のほうはどうであるか。映画のストーリーでは、最後は収容所内の事件も無事に解決する、解決するのは良いのだが、筆者は、その解決の仕方に、若干の残酷さを感じてしまった。捕虜収容所の話とはいえ、やはり、戦争を扱った映画であり、戦争における残酷さをこの映画でも避けて通ることはできなかった。まあ、”犯人“ は、その運命を受けるに相応しい残酷なことを当人もしており、当然といえば当然の報いでもあるのだが、目には目を、って感じでした。

 

ラスト、収容棟の窓に、MERRY XMAS の文字が浮かぶ。ビリー・ワイルダーらしいエンディングだと思ったのだが、筆者は、この映画では素直にMERRY XMAS、とお祝いのハッピーな余韻を感じることができなかった、やはり、戦争映画だった、この映画は……面白い映画ではあるんだけれどね。

 

 

 

 

映画 トッツィー       ダスティン・ホフマン  主演:   悪くないけれど残念な映画

トッツィー (字幕版)

 

ダスティン・ホフマンと言ってすぐに思い浮かべる映画は、彼のデビュー作、「卒業」と、トム・クルーズと共演し、障害を持つ兄を演じた「レインマン」であり、前者では2つの新人賞を獲得し、後者においては、アカデミー賞ゴールデングローブ賞で、主演男優賞を獲得している。この二つの映画だけではない、映画「クレイマー・クレイマー」であるとか、映画「真夜中のカーボーイ」であるとか、あげればきりがなく、ダスティン・ホフマの演技のすばらしさを堪能できる映画はある。

 

今回の映画「トッツィー」もまた、上に述べた映画とはまたちがった角度から、ダスティン・ホフマンのうまさを、観ることのできる映画であると感じる。今回、彼は、女になる、つまり、女装して、ドロシー・マイケルズという、ソープオペラのオーデションに合格して、次第に人気者になっていく女性と、マイケル・ドーシーという、その完璧主義のために売れない男優、という一人二役をこなす。見どころは、やはり、女性に扮した、ダスティン・ホフマンの女性ぶりであり、映画全編にわたって、ダスティン・ホフマンの演技のうまさを、ただ、ただ、見せつけられるような映画である。

 

筆者は、この映画を観ながら、ダスティン・ホフマンの演技のうまさに感心しながらも、何故か、これでもか、これでもか、というほどに見せられる、彼の “うまさ” が、少々鼻に着いたりしてしまった。なんというか、もうわかったから、君の演技のうまさは、もう、十分だから‥‥、という感じか。

 

女性としての、ダスティン・ホフマンの演技のうまさは、置いておくとして、映画の初めのあたりで見せられた、ドロシー・マイケルのホフマンは、やはり、多少、体つきも顔つきもごつくて、ちょっと女性にしては無理があるんじゃないか、と、思った、が映画が進行するにつれて、特に、ドロシーが人気者になって、雑誌のグラビア、雑誌の表紙を飾る、とここまでくると、妙に、美しく、女性らしく、元気いっぱいおしゃれな、ドロシーを見せられる、この、雑誌のグラビア撮影の時のドロシーは、確かに、美しかった、本物の女性と思っても自然であるな、と感じた、ダスティン・ホフマン、さすが、というところか。

 

この映画「トッツィー」を観ていて思い出すのは、やはり、日本の歌舞伎の女形であり、女形と言えば、坂東玉三郎であり、女性以上に女性らしく、女性以上に美しく、時に妖艶な女形である、玉三郎玉三郎と元気いっぱい、明るいドロシー・マイケルズのダスティン・ホフマンを単純に比べるわけにもいかないが、同じ、女を演じる男性であっても、東と西ではずいぶん趣も異なるものだな、と思わずにはいられない。

 

また、西洋においても、シェイクスピアの時代には、役者は日本の歌舞伎と同じで、男性の役者しかいなかった時代であった、なので、当然、シェイクスピア劇の女性の役は男性が、少年が、演じていた、男が女装して女を演じる、西洋においても、別だん、特に目新しいことでも、現代的なことでもなく、16世紀の後半から17世紀にかけて、日本の歌舞伎と同じよう、西洋でも行われていた。西洋にも ”女形“ がいたのであろう。

 

さて、では、ストーリーのほうはどうなのか、と思われるかもしれない。ダスティン・ホフマン演じるもう一人の男性のほうの、マイケル・ドーシーは、先ほど、ダスティン・ホフマンの過剰に見せられる演技の “うまさ” が鼻に着いたと書いたが、それと同じく、彼の、完璧主義さがやはり、筆者には少々、鼻に着いた、ちょっとやりすぎじゃないか、など思ったりもする。女装ドロシーによって、引き起こされる数々のエピソードも面白いのだが、やっぱり、どうも、残念ながら、筆者にはドロシーが好きなタイプの女性ではなかった。など、いろいろ、物申したくなる点もあったりする、トータルには面白い映画なのだが、残念である。

 

ということで、この映画、ダスティン・ホフマンのうまい演技を堪能するには、もってこいの映画と言えるのだが、彼の扮するドロシーが、タイプかどうかは意見の分かれるところ。

 

まずは、映画を観てみて、女装したダスティン・ホフマンを堪能してみるのがおすすめ!

 

 

 

映画 「メン・イン・ブラック」/  「メン・イン・ブラック 2」   トミー・リー・ジョーンズ    ウィル・スミス    主演

 

 

メン・イン・ブラック (字幕版)

 

発想が奇想天外すぎて、コミカルすぎて‥‥という人もいるかもしれない、が、エイリアンを扱った映画は星の数ほどあり、この映画「メン・イン・ブラック」と映画「メン・イン・ブラック 2」も地球と地球人とエイリアンを扱った映画として、筆者は痛く気にいっており、映画「メン・イン・ブラック」もいいのだが、どちらかというと筆者は、映画「メン・イン・ブラック 2」のほうが気に入っているのである。

 

まず、トミー・リー・ジョーンズがいい、トミー・リー・ジョーンズと言うと缶コーヒーボスのコマーシャルでおなじみの方も多いいと思うが、映画では地球に住むエイリアンを統括し、エイリアンから地球を守るMIBという組織(Men In Black)の腕利き捜査官を演じている、ボスのコマーシャルでは逆に地球を訪れて地球人を観察しているエイリアンを演じている。そうなのである、映画「メン・イン・ブラック」では、数多くのエイリアンたちが地球で暮らしていて、地球人と共存している、地球人に気づかれないように。仮に、エイリアンが地球で事を起こして、一般の地球人がエイリアンと接触してしまっても ”ピカッ“ と、ひと光浴びれば、目撃したことをすべて忘れてしまうという、実に便利な装置を彼らは携帯している、地球におけるエイリアンの存在を知るのはMIBのメンバーのみとなる。

 

メン・イン・ブラック2 (字幕版)

 

トミー・リー・ジョーンズがいいと書いたが、相棒となるウィル・スミスもいい、二人の掛け合いが面白い、映画「メン・イン・ブラック」では、まだ新入りの駆け出し捜査官であるのだが、「2」では、すっかり腕利きのベテラン捜査官となる、しかし「2」で、トミー・リー・ジョーンズ扮する捜査官Kが復帰すると、そのキャリアの差はやはり歴然となり、途端に、ウィル・スミス演じる捜査官Jが、第一話の映画の新米捜査官のようになってしまうところも面白くていい。

 

この映画はSFであるが、コメディ映画でもある、「2」の冒頭では、トム・クルーズ主演の大ヒット映画「ミッション・インポッシブル」シリーズの元となった、TVドラマ「スパイ大作戦」でおなじみのピーター・グレーブスがピーター・グレーブスとして登場し、なんともチープなつくりの円盤がでてきて、チープな話をするのであるが、この ”チープ“ な映像が映画「メン・イン・ブラック 2」で、事件が起きてストーリが展開していくための発端というか大きな鍵になるのである。筆者はこのピーター・グレーブスが紹介する円盤を観て、アメリカの古い古いTVドラマ「謎の円盤UFO」というSFドラマに出てくる円盤を思い浮かべた、まだ、特撮が初期の初期の頃の、本当におもちゃみたいな円盤なのである。

 

ストーリーは映画「メン・イン・ブラック」でも「2」でも、捜査官KとJが地球を救うためにラストにはエイリアンと対決するという運びになるのであるが、このエイリアンとの対決シーンは、「2」のほうに軍配を上げたいと思う。映画「メン・イン・ブラック」でも、最後にはエイリアンがその正体の全貌を現わしてくるのだが、どうも、その、全貌が、筆者には思っていたほどの迫力と驚愕を感じさせてくれなかった、実に巨大なエイリアンのはずなのであるが、観ていてどうもスケールの大きさを感じられなかった、先ほどからの表現を借りるならば、少々 ”チープ“ である、と感じてしまったのである。果たして、皆さんはどう感じるかは、実際に映画を観てほしい。

 

が、エイリアンと対決しながらも、とぼけたギャグが入ったりして面白い、捜査官KとJがエイリアン相手に使う数々の武器もいい、そんな、少しばかり漫画チックな映画である、が、面白い。SF好きな方ならば、この面白さが分かるのか、それとも、SFに興味のない方にも、通じる面白さなのか? それとも、面白さ通じない?

 

そこのところは、やはり、実際に映画を観て確かめてほしいところである。

大ヒットした、面白い!映画です。