Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画  チェンジリング  クリント・イーストウッド監督

チェンジリング (字幕版)

 

この映画のタイトルは「チェンジリング」(changeling: 取り替え子)といって、“こっそり他人の赤ん坊に取り替えられた子供”、であるとか、“さらった子の代わりに妖精たちが残す醜い子” という意味を持つ、実際に起こった事件を題材にして作られた映画で、なかなか重く、考えさせられる映画である、そして、クリント・イーストウッド監督の手際の鮮やかさに、またしても感服する、そんな映画であると思う。

 

タイトルが、「チェンジリング」というのであるから、映画の中で子供の取り違えが起こる、生まれたばかりの赤ん坊ではなくて、少年なのだが、故意に、或る意図をもって行われる、このストーリーの流れがまず映画の冒頭にある。映画の中の第二のストーリーは、取り換えられた子供を、自分の子供ではない、と主張する母親がたどる運命にある、なかなかシビアで、ひどい運命である、まっとうな主張であるはずなのに、そんな主張をされたら都合の悪い人間たちがいて、母親の主張を亡きものにしようと画策する、この展開は恐ろしい、実際にあった話がもとになっていることを考えると、なおさらに背筋がぞっとする、怖い展開。

 

最後のストーリーは、’取り違えられて‘ いなくなってしまった少年の運命についてのストーリーである、実際は取り違えられた、なんてものではないのだが、とにかく、いなくなってしまった少年のストーリーはまた、映画全体の中では小さなエピソードなのだが、心を揺さぶる、少年の運命が少しずつ明かされていく過程は、ドキドキするし、小さなクライマックスともいえる。この三つのストーリの流れの糸が、職人の見事な技によって紡がれていくように、職人イーストウッド監督が、映画の中に織り込み、映画を観終わった後に、重い感動を与えてくれる。

 

いなくなってしまった少年のストーリーは、これも事実に基づいているのだろうが、監督の脚色によって、ドラマチックに物語となる、が、映画のかなりの部分を占める、真実なのに受け入れられない主張をし続ける母親の理不尽な運命の告発こそが、この映画の主題、監督が一番描きたかったこと、と考える。

 

イースドウッド監督のこの母親の悲惨な運命の描写は、細に入り密に入り、克明に力が入っていて、見ているほうは、この映画が取り違えられた子供の物語であることを忘れて、映画の主役が子供を失った母親、母親の物語にすり替わり、母親のドラマになっていることに、気づいてか、気づかずか、とにかく、彼女の物語を夢中で見ることになる。

 

筆者はここで、職人イーストウッド監督のマジックに目を見張る、又は、遊び心、とでも言ったらいいか、「チェンジリング」というタイトルをつけておいてこの映画は、子供の取り違えをメインとした取り違えられた子供の映画だと観客に思わせる、まあ、この点は映画の予告編や宣伝にも責任がある、当時の映画の予告編や宣伝を見る限りでは、だれでもそう思う、ほぼメインに描かれる母親のドラマのことなんかチラとも触れられていなかった。

 

見ている側からすると、子どもの話がいつの間にか母親の話に ”取り違えられる“ ”すり替わる“ 、子供の取り違えとストーリーの取り違えと、二重の取り違えが行われる、可愛い子供の話から、確かに ”醜い“ 大人たちの話に代わる、妖精によってではなくてこの場合はイーストウッド監督によって‥‥深読みのし過ぎ、単に、宣伝の仕方のせいだよ…と、そうかもしれない、が、筆者はここに、イーストウッド監督の職人技を感じてしまう、重い余韻の残る映画、さて、あなたはどう感じるであろうか?

 

 

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家族ゲーム   松田優作 主演/     森田芳光 監督

 

家族ゲーム

 

この映画のオリジナルは小説だ、が、筆者はその小説を読んだことはない、また、映画より先にTVドラマ化されたという、残念ながら、筆者はそのTVドラマも見ていない、つまり、「家族ゲーム」という映像の物語を見るのは、森田芳光監督、松田優作主演の「家族ゲーム」が初めてであり、この映画についてしか語ることはできない、と最初に述べておこう。

 

森田芳光監督、映画「家族ゲーム」を見ようと思ったのは、もちろん松田優作が主演しているし、話題になった映画だから。松田優作については拙稿「ブラックレイン~松田優作に寄せて~」で以前書いたことがある、「ブラックレイン」の悪役ぶりは良かった、或る意味、カッコよくすらもあった、が、この映画でそのカッコ良さを松田優作に期待してはいけない、この映画の松田優作の役どころは、家庭教師である、しかも、ちょっと変な家庭教師、時には、危ないんじゃないこの人は、と思わせられる役柄。

 

 

ブラック・レイン (字幕版)

 

話題になったことは、家族が食事をするシーンの奇抜さ、家族が横一列に並んで食卓に座って夕食を食べたりする、コロナ禍の現代ならば、対面に座っては飛沫が飛ぶ、食事するときは横に二人並んでね、などなど、喫茶店で言われたりするかもしれない、が、当時は、家族の食事のシーンといえば、テーブルを囲んで、仲良く、和気あいあいとしたシーンが定番であったと思う、だから、映画「家族ゲーム」のこの食卓シーンは当時話題になった。

 

そんな一風変わった映画なのだが、この映画が面白く感じる、なので、リピートして観しまう、そんな変な面白さがある、数々の賞も受賞している、面白い映画なのだ。どこが面白いかといって、最初はいじめられっ子だった茂之君が、松田優作演じる吉本家庭教師によって、めきめき勉強ができるようになり、かつ、強くなってゆく過程、由紀さおり演じる母親が、茂之君を甘やかすせいか、茂之君かなり歪んでいる、が、吉本家庭教師の指導(?)のもと、やっぱり、成長しているんだね、だって、吉本家庭教師のビンタをかわしたり、逆に、吉本家庭教師にビンタすることまでできるようになる‥‥ビンタ、ビンタ、ってどんな家庭教師と勉強なんや?

 

こんな、茂之君と吉本家庭教師とのエピソードを軸に、茂之君をいじめる土田君、茂之君のお兄さんの真一君のエピソードなどが絡んでくるところが、みそか。よくよく映画を観ていれば、この茂之君の家族は、問題だらけの家族ということが分かってくる、そんな問題だらけの家族の中の問題児の茂之君に勉強を教える吉本家庭教師、この家庭教師は、変な人だが、一本筋が通っているのか、茂之君の両親よりはまっとうな人間のように思えてくる、が、変な人には変わりない。

 

筆者は、常日頃、余韻の残るラストシーンを、といっているのだが、正直なところこの映画のラストは、よくわからなかった、監督は何を言いたいのか? 別に、よくわからなければ、わからないままで映画は面白かったのだからいいようにも思えるのだが、よくわからないラストをそのままにしておくのは、何か気持ちが悪い、このラストはどういうこと? と、筆者はいつもつい、意味を探してしまう、筆者の悪い癖!(右京さん真似ました)、ということで、小説とは異なるかもしれないが、筆者はこんなふうに考えてみた。

 

ラストに、沼田家は吉本家庭教師も含めて、或るお祝いの席を設ける、せっかくのお祝いの席で茂之君の父親がまた、余計なことを言い出して、祝いの席を台無しにしかけるのだが、その時の、吉本家庭教師の行動もまた一風、いや、かなり変わっている、そして、めちゃくちゃにされた祝いの席の残骸を家族で片付けながら、この家族、何か、一皮、薄い皮かもしれないけれど、むけたのではないか、と考える。

 

茂之君は勉強相変わらずだが、メンタルは少しばかり成長した、お兄さんの真一君も、何か目標を見つけた感じ、ラスト、どこかで事件が起こったのか、しきりとヘリコプターの音が聞こえるが、事件だとしても、それはどこかほかの場所であって、沼田家でなかった、沼田家は平和そのもの、吉本家庭教師がいなかったら、もしかしたら、沼田家で起こっていたかもしれない ”事件“ なのかもしれない、つまり、映画はハッピーエンドだ。

 

こう考えてみると、ラストに余韻も残る、タイトルロールとともに聞こえてくる、これまでの劇中の人々のセリフや、ささやきも余韻の効果を高める、そして、この映画はリピートして観たくなる映画となった、松田優作の “怪演” も含めて、是非、どうぞ!

 

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映画  ベニスに死す     ルキノ・ヴィスコンティ 監督

ベニスに死す (字幕版)

 

水の都ベニス、ベニスの中心部であるサン・マルコ広場、回廊のある建物が周りを囲み、石畳、とても美しい広場であるが、最近この広場についてのニュースで思い出されるのは、水害で広場が水浸しになってしまい、文字通り、‘水の都’ ベニスになってしまった、というニュースだ。この映画は、そんなイタリアの美しい都市ベニスの近くにあるリド島という島を舞台にした、わりと、せつなくも美しき映画である。

 

まず、監督ヴィスコンティがベニスの美しい海を見せてくれる、実際は、リド島なのだが、とにかく、美しき映像を見せられて、心ははや水の都へ飛んでいく心持、そこへ老作曲家が心惹かれる美少年、ビョルン・アンドレセン演じるタージオ少年が登場する、そして、老作曲家だけではなく見ている観客もこのタージオ少年を演じているビョルン・アンドレセンの美貌に目を奪われることとなる、華奢で、美しく、小悪魔的なあぶなさを秘めるタージオ役のビョルン君は映画をさらっていく。

 

老作曲家はタージオ少年の美しさの虜になってしまう、なので、最後までタージオ少年のそばにとどまり、その美を見届けようとする、この老作曲家は何故にそれほどまでにタージオ少年の虜となってしまったのか、タージオ少年の美しさだけで、ここまで一介の少年に心を奪われる、なんていうことはどうなのだろうか? 老作曲家のタージオ少年への肩入れの仕方が尋常ではないと感じた筆者は、はた、と考えてしまった。

 

筆者は同じような老人を知っている、えっ、だれを? この老作曲家と同じように若さと美に執着した、ゲーテ著「ファウスト」のファウスト博士を、ファウスト博士は年老いていて、学問に身をささげた人生を送ってきた、それはそれとしていいのだが、そのために、自分が人生の美しさを犠牲にしてしまったことが、悔やまれてならない、そこで、悪魔メフィストと契約を交わして、再び若返って人生を謳歌し、一度は失った快楽の限りを尽くす、「時よとまれ、お前は美しい」というセリフが口をついて出るまで。

 

「ベニスに死す」の老作曲家もファウスト博士と同じ心境になったのかな、ベニスの海に美しく輝く、生命力に満ち溢れたタージオ少年に出会い、作曲に捧げた人生で犠牲にしてきた、青春と人生の快楽を今一度取り戻せたらと願ったのか、願うが、老作曲家の場合は悪魔が出てきて、ファウストのように若返らせてくれるわけでもない、ファウスト博士のようにはいかない、できることといえばただ、美しく若きタージオ少年をめでて、思い、自分を慰めることだけか。そして、めでて、そばにいるだけだったが、老作曲家の場合は、映画のラストに「時よとまれ、お前は美しい」となる、老作曲家は最後、笑ったのだから。

 

似たような人物がもう一人いた、そうだ、オスカー・ワイルド著「ドリアン・グレイの肖像」のドリアン君だ。彼も悪魔と取引したのだろう、ほぼ永遠の若さを手に入れて悪徳の限りを尽くしていたではないか。が、「ベニスに死す」の老作曲家やファウスト博士と違うところは、二人とも形こそ違え、最後は “時は美しい” となって、まあ、或る意味、満足しながら最後を迎えたが、ドリアン君の場合はラストはすこしばかり、陰惨、悲惨だった。

 

ベニスに死す (集英社文庫)

 

さて、悪魔と取引できなかった「ベニスに死す」の老作曲家に起こっている出来事は、同じフィクションの世界とは言え、ファウスト博士やドリアン・グレイよりも現実に近い。老いた人間が自分の人生を後悔して、青春の日を再び、と熱望しても、普通可能なことは老作曲家のようなことしかないんだよ、と言いたかったのか。「ベニスに死す」の原作者、トーマス・マンゲーテの「ファウスト」の世界を、冷酷非情に、現実の世界に置き換えた。ヴィスコンティはそのトーマス・マンの世界をタージオ美少年に具現し、リド島の美しい海とともに映像化した、ヴィスコンティの世界、ここにありき、という感じ。

 

そんな、はかなくも熱烈であるが、悲しい老作曲家の心情を感じつつ、美しいタージオ少年と海に酔いしれる、というところにこの映画のいいところがあるようだ。まあ、人生、後悔しないように生きていくのが一番であり、’非情、冷酷‘ 、な映画とはいえ、この老作曲家みたいなお年寄りって、もしかしたら、少なくないのかもしれない。

 

作家、トーマス・マン自身も実際にベニス旅行中にタージオのような美少年に夢中になって、その経験を小説にした、ということだが、筆者は映画「ベニスに死す」、こんなふうに考えて、この映画はディープに見ることのできるいい映画とした、一度ぜひどうぞ、そしてあなたの思ったことは?

 

 

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ファウスト(一)(新潮文庫)

ファウスト(一)(新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

映画  E.T.     スティーブン・スピルバーグ 監督

 

E.T. (字幕版)

 

この映画のタイトルを初めて聞いた時、これはいったいどういう意味なのか?と思った人が多かったのだろう、中には ’English Teacher”の略だよ、と言ってふざける人もいたりした、

もちろん、E.T. はEnglish Teacher の略などではなく、この映画のタイトルは ‘The Extra Terrestrial’ といって地球外生物のことであり、宇宙人のことであり、エイリアンのことであった。おそらく、この映画までのエイリアンというと、リドリー・スコット監督の映画「エイリアン」に代表されるような、恐ろしくてグロテスク、得体のしれない人類の敵、といったイメージが強かったのでは、と思う。

 

が、この映画のエイリアンはそんな今までのエイリアンのイメージを覆した、180度変えた、この映画のエイリアンを ’グロテスク‘ と感じるかどうかは人それぞれではあるが、少なくとも、恐ろしくて人類の敵、というイメージはみごとに破った、だって、この映画のエイリアンは子供たちと一緒に行動して、子供たちと一緒に活躍するのだ、恐ろしい人類の敵では無理な芸当、そう、この映画のエイリアンは、“キュート” なのである、さらに大きさから言っても、ちょっと大きいテディ・ベアといった感じ、実際、映画の中では女の子がエイリアンにコスチュームをつけてしまったシーンもあるし、映画の流れの一つとして、ハロウィンということで、エイリアンもハロウィンの仮装をする、というシーンもある。

 

 先ほどから筆者は、この映画に出てくる宇宙人のことを、ことさら、‘エイリアン と書いているが、若干意図がある、それは、リドリー・スコットの映画「エイリアン」のタイトルと、リドリー・スコットの映画に出てくるエイリアンのイメージを頭の隅においてほしかったからである。なぜって、スピルバークのこの映画、タイトルは「E.T.」であるが、別の言い方をすればこの映画だって、『エイリアン』というタイトル、としてもおかしくない、と感じるから、E.T. ≒ エイリアン。イコール、= でもいいかも。

 

筆者は勝手に想像する、スピルバーグはリドリ―・スコットの「エイリアン」を意識していたのではないかしら、リドリー・スコットが恐ろしい人類の敵エイリアンを描くのなら、それじゃ、全く正反対の ’エイリアン‘ を描いてみせよう、とライバル意識燃やしていたかも、映画「E.T.」 は 映画「エイリアン」より3年後の公開である。

 

ProFrames アダムの創造 ミケランジェロ アートプリント 額入りポスター 12x18 18x12 inches

 

さらに、この映画にはエイリアンが子供たちとお互いに、お互いの人差し指の先を合わせあうシーンがある、このシーンは、イタリアのヴァチカン、システィーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロフレスコ画アダムの創造」で、アダムと創造主との指と指とのコンタクトの図をヒントに作られたシーンだという、スピルバーグはこの映画に芸術的要素もちょっぴりと加味したのか、やっぱり、熱いライバル意識? 

 

余談ではあるが、筆者は映画「E.T.」公開後に、イタリア、ヴァチカン、システィーナ礼拝堂を訪れた、天井を見あげて、アダムの指と創造主の指が触れ合わんとするこのフレスコ画を見ながら、スピルバークも同じように、この礼拝堂に立って、天井のアダムと創造主を見上げていたのかしら、と思ったりした。

 

大きな月をバックにして、少年の自転車が空を飛んでいる、この映画のポスターはファンタスティックだ、このポスターの意味は映画を観ればわかる、是非、見てほしい。スピルバーグは子供たちとエイリアン、宇宙人とのファンタジーをこの映画で描いた、この映画はエイリアンは出てくるのだが、SF映画、といよりは、ファンタジー映画という方がふさわしい、キュートなエイリアンと子供たちが織りなす物語は、ステキに面白い。

 

ラストのエイリアンのセリフ、 “Be good.” (いい子にしているんだよ) というのも、温かい、スピルバーグにとってのエイリアン、宇宙人というのは、こんなおとぎの国の魔法使いのような存在であったか、それなのに、世の中、映画「エイリアン」に代表されるような凶悪なエリアンのイメージでいっぱいだった、映画「E.T」は大ヒットした、

配給収入では映画「エイリアン」を、大きく上回ったようだ、スピルバーグ、ひそかに、ガッツボーズしていたかもしれない‥‥ね。

 

 

 

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映画  卒業   ダスティン・ホフマン  主演

卒業 [Blu-ray]

 

古いアメリカのデュオだが、サイモン&ガーファンクルという二人組のグループがいた、数々のヒット曲をとばし、「サウンド・オブ・サイレンス」であるとか、「明日に架ける橋」であるとか、「コンドルは飛んで行く」など、ご存じの方も多いいと思う、この映画はこのサイモン&ガンファークルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」をはじめ彼らの数々のヒット曲が映画全編に流れる映画だ、ただ、「サウンド・オブ・サイレンス」という曲はどちらかというと、曲のトーンが暗い曲であり、この映画全体を包むトーンも、明るい映画というよりは、暗いイメージの映画、という印象が強い、明るくハッピーなのはラストだけ、っていう感じ。

 

主演は若き日の新人俳優、ダスティン・ホフマン、そして彼の演じるベンジャミン君である、彼が大学を卒業したところから映画は始まる、彼の卒業祝いのパーティーのシーン、映画を観た当初、そこで描かれている大人たちが何か滑稽で、ばかばかしく、変にデフォルメされている感じをうけた、今思うと、これは、そのパーティーに出席していたベンジャミン君が、感じていたかもしれない感覚を、見ている観客に感じてもらうための演出だったのかしら、と思ったりする。

 

このパーティーでベンジャミン君はミセス・ロビンソンという女性と知り合い、、物語は展開し始める、サイモン&ガンファークルの曲にも「ミセス・ロビンソン」という同名のタイトルの曲があり、この曲がロビンソン婦人の映像とともに劇中でも流れる、考えているなあ。ベンジャミン君とロビンソン婦人は映画「ティファニーで朝食を」のポール・バージャックと彼の室内装飾家を思い出させる、ただ、「ティファニーで朝食を」のようには明るくはない、映像なども暗くて、結構、ドロドロ、ネチネチ感が強い、こんな描写も、とうのベンジャミン君の心の奥底、心理状態を表しているのでは、と考える。

 

が、この映画にも途中から明るい光が差し込んでくる、それは、キャサリン・ロス演じるロビンソン婦人の娘エレーンの登場である、キャサリン・ロスという女優は別段特に好き、という女優でもないのだが、それまでの映画のイメージがあまりにも暗くて、じとじと感があったので、エレーンは新鮮、若い、可愛い、という印象をまず受け、泥沼にはまっているベンジャミン君の救いに彼女はなるのかどうか、というところが後半、この映画の見どころとなり、ラストのクライマックスへとつながる。

 

真夜中のカーボーイ [DVD]

        クレイマー、クレイマー (字幕版)

 

 

この映画の時、ダスティン・ホフマンは新人なのである、ハリウッドデビューしたばかりだ、なのに、彼の演技は、その後、例えば、「真夜中のカーボーイ」や「「クレイマーvs.クレイ―マー」や、「レイン・マン」などで、主演男優賞を獲得していく、演技派俳優としての片鱗を見せつけてくれる。ダスティン・ホフマンという俳優は、デビュー当時から、演技力も才能にも恵まれた俳優であった。

 

レインマン(字幕版)

 

この映画のタイトルは「卒業」という、英語のタイトルも「The Graduate」(卒業生)である、見ているほうは、だれが何から卒業するのか、と当然思う、主人公はベンジャミン君なので、当然、ベンジャミン君が卒業するのだ、大学は卒業した、映画の冒頭でわかる‥‥、まだ、なにかあるのか? それは、映画を観て、見た人がそれぞれ考えてみよう。

 

最初にも書いたように、この映画で明るくハッピー感があるのはラストだけである、ラストはとてもいい、映画史上に残るとも言っていいラストなのだ、若干、ドロドロする暗い映画なのだが、ダスティン・ホフマンの演技とこのラストシーンと、全編に流れるサイモン&ガンファークルの数々の名曲で、この映画は名作となる、やっぱり何度見てもいい映画だね!

 

 

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帰らざる河   マリリン・モンロー/   ロバート・ミッチャム  主演

帰らざる河 [DVD]

 

この映画で、最も印象に残っているのはマリリン・モンローが歌う曲、「帰らざる河」だ、映画の中ではモンローがギターを片手に弾き語る、少しハスキーな声で、とても、情感あふれ、いつまでも心に残る、そうしたら、偶然の一致か、それとも監督あえて意識したのか、このギターを片手に若干ハスキーな声で歌を歌うとういう、似たようなシーンを後の映画で見つけた、場面設定も全く異なる、歌っている女優もマリリン・モンローとは正反対の女優、さて、何という映画の何という女優? それは、「帰らざる河」から7年後に上映された映画、「ティファニーで朝食を」の中での、オードリー・ヘップバーンだ。

 

映画「ティファニーで朝食を」の中で、オードリーはマリリン・モンローと同じように、ギターを片手にちょっとばかりハスキーな声で ヘンリー・マンシーニの名曲 ”ムーン・リバー“ を歌う。もちろん、マリリンとオードリーの役どころは違うし、歌を歌う状況も違う、ついでに、女優としてのタイプも全然違う。でも、二人とも歌っているは ”river” の歌だ、日本語にしてしまうと ’河‘ と ’川‘ で違うのかもしれないが、オリジナルは英語であるし、二人ともに “river” の歌だね。

 

これなんだろう? 監督のいたずらか? と思ったりしたのだが、分かったことによると、もともと「ティファニーで朝食を」の主役、ホリー・ゴライトリー役はマリリン・モンローを、と原作者のトルーマン・カポーティは考えていて、実際にモンローにオファーしたということだ、えー!!! 本当なの!!! と思ってしまった、モンローが断ったのでヘップバーンにゴライトリー役は回ってきたらしい、それなら偶然といよりも、やっぱり監督が意図的に?! その可能性のほうが高くなったね。

 

帰らざる河 [Blu-ray]

 

「帰らざる河」の中でマリリン・モンロー演じる酒場の歌手、ケイはどちらかというと、その日暮らし、また、環境的にも、荒くれ男たちでにぎわう酒場で歌う、という設定で、映画でも、そんな男たちを相手に歌を歌うケイを描く、一方、「ティファニーで朝食を」の中でオードリー・ヘップバーン演じるホリー・ゴライトリーはどうかというと、こちらはもう完全なその日暮らしで、金持ちの男性と結婚することを望んで、金持ち男とデートして金品をプレゼントしてもらって生活している、原作者のトルーマン・カポーティによると ”アメリカン・ゲイシャ“ だそうだ、役柄的にも似ていないといえなくもない。

 

以上のように、オードリー・ヘップバーンが「ティファニーで朝食を」の中でギター片手に ”ムーン・リバー“ を歌ったのは、もしかしたら複雑な思惑があったのやもしれぬ、が、そんな思惑なんかほっといて、筆者としては ”帰らざる河“ も ”ムーン・リバー“ もどちらも素晴らしい曲で、どちらの曲も大好きなんだ!ということを言いたかった、偶然見つけたマリリンとオードリーの似たようなシーンも、大好きな女優マリリンとオードリーがハスキーな声で、筆者の大好きな曲をそれぞれ歌っているのがうれしかった、ポイントはここである。

 

さて、やっと、映画「帰らざる河」について触れるが、マリリン・モンローはシリアスな役どころをよく演技している、と思った、アクターズスタジオに行く前の映画だと思うが、悪くないじゃないか、子供の父親役のロバート・ミッチャムよりいいと感じる。映画のタイトルにもなった「帰らざる河」の激流下りのシーンでは、どうも、やっぱり、スタジオセット感を否めないところなのだが、激流を下っている迫力はしっかりと伝わってくる、モンローもミッチャムも水をかぶりながら苦労して撮影したのだろうな、と感じるところ。

 

ストーリーはいい感じで進む、ラストもいい、そして、この映画のラストと同じラストもどこかで見たことがある、この映画「帰らざる河」と同じで、今一度、似たようなシーンを思い出させる映画、再び聞きたい、それは何という映画のラストシーン?

 

愛と青春の旅だち (字幕版)

 

それはね、リチャード・ギア主演「愛と青春の旅だち」だよ、そっくりなラストではないですか。「愛と青春の旅だち」では、周りにいるみんなが涙ぐんで拍手していたけれども、やっぱり、ここも、ケイ演じるマリリンには拍手するところであるか。

 

ということで、「帰らざる河」、古い映画なのだが、いい映画、マリリンはいい、マリリンの歌う歌もいい、激流下りもいい‥‥ということで、是非見てほしい、見てほしい映画!

 

帰らざる河(「帰らざる河」<1954>より)

 

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バス停留所   マリリン・モンロー  主演

バス停留所 [DVD]

 

マリリン・モンローの映画の中では「お熱いのがお好き」に続いて好きな映画になる、マリリン・モンローは相変わらずかわいいが、アクターズ・スタジオで演技のレッスンを受けた後の、ハリウッド復帰作品ということもあって、モンローは演技で見せる、そのかいあってか、ゴールデングローブ賞の主演女優賞にもノミネートされた映画、モンローの念願かないつつある、というところか。

 

映画はロマンティック・コメディーで、モンロー演じる酒場の歌手シェリーとドン・マレー演じる田舎から初めて都会にでてきたカウボーイ、ボーとの恋の物語である、都会の女性と都会を知らない、田舎から出てきたばかりの男性の恋物語、ということもあって、二人の価値観のギャップがこの映画の面白さとなる。特に、ボーの世間知らずぶりというか、都会も女性も知らなさすぎ、というか、田舎の自分の牧場だけが世界だった感の、我儘ぶりとか、独りよがりぶり、人の気持さっしなさすぎ感、が、映画の最初に思いっきり描かれる。

 

なので、見ている観客としては、最初はすこしイライラした、ボーがどうしょうもなさ過ぎて、マリリン、もっと言ってやれよ、であるとか、早く逃げ出せよ、とか、変に、マリリン演じるシェリーに肩入れしたくなる。

が、そんなどうしょうもないボーが、ストーリーが進行するにつれて、少しずつ、変わっていくのがこの映画のいいところか、自分がかわっていくから、シェリーへの態度も変わってくる、態度が変わってくれば、シェリーの気持ちも変わってくる、いろいろなことが起こって、いろいろと変わっていきながら、ラストへと向かう、ラストもいい映画なのである。

 

紳士は金髪がお好き(字幕版)

 

以前紹介した「お熱いのがお好き」では、マリリン・モンローは数々の歌を披露し、その中には名曲も数あったことを語った、この映画「バス停留所」の前に出演したいくつかの映画では、たとえば、「紳士は金髪がお好き」などでは、歌ばかりでなく見事なダンスも披露し、歌って踊れるマリリン・モンローのイメージは強い。が、先にも書いたように、この映画では、モンロー、演技に “全集中” っていう感じで、この映画でのモンローの歌声が聞けるのは酒場の歌手として映画の冒頭で歌を披露するときのみとなる、まあ、後は、ずっとバスと、バス停留所が舞台となっていくので、歌もダンスも披露する機会は自然ないのだが。なので、ここはマリリン・モンローの演技に観ている側も “全集中” してみよう!

 

いい映画である、ラスト、シェリーとボーはどうなるのか? ついつい、最後まで、引き込まれるように見てしまうよ!

 

 

ショウほど素敵な商売はない [Blu-ray]

  

バス停留所 [Blu-ray]

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映画  地上最大のショウ

地上最大のショウ [DVD]

 

以前に「荒野の決闘」という映画を紹介したことがある、ずいぶん古い映画だった、今回紹介する映画も映像にかなり時代を感じる、なので、「荒野の決闘」の時と同じように、あまり期待をせずに見始めた、確かに映像や役者の演技には時代を感じるのだが、この映画も「荒野の決闘」の時と同じで、観終わってみると、悪くない、案外いいんじゃない、ラストも悪くないし、という感想で、今回紹介することとした。

 

サーカスを舞台にした映画だ、おそらく、サーカス、といったただけで時代を感じるのでは、もちろん、現在でも、ロシアの ”ボリショイサーカス“ などは、生き残って、今なお世界中で興行を行っている有名サーカスではあるのだが、今の時代、サーカスと言ってすぐに頭に思い描くのは、 ”シルク・ド・ソレイユ“、カナダに本部を置き、新スタイルのサーカスで世界中の子供のみならず、大人を虜にしているサーカスだ。

 

シルク・ドゥ・ソレイユ 彼方からの物語 (字幕版)

 

“シルク・ド・ソレイユ” は ’太陽のサーカス‘ という意味で、確かにサーカスを見せる団体であるのだが、そのショウは従来のサーカスとは全く異なる、もちろん、従来のサーカスを引き継いでいる、が、その内容は芸術性の高いショウへと昇華している。彼らのショウにはテーマ性があり、毎年、そのテーマを変え、新しいパフォーマンスをひっさげて、日本にも何度も来日し、その素晴らしいパフォーマンスを見せてくれている。かくいう筆者も何度か見に行ったことがある、確かに、その芸術性の高さに感嘆し、大人のサーカスへと変身した、新しいパフォーマンスのサーカスに、感動した。

 

が、この映画で描かれるのはそういった ‘ネオ・サーカス’ ではない、従来からのスタイル、動物たちがどんどん登場し、綿あめをなめながら、ポップコーンを食べながら、ドリンクを飲みながら、子供を中心に、大人も夢中になってしまう、或る意味 ”古典的サーカス“ だ。この古典的サーカスのパフォーマンスと、このサーカス団員たちの人間関係を中心に、この映画のストーリーは展開する。

 

映画は、サーカスで行われる数々のショウ、パフォーマンスにかなり映画の大部分をさいている、なので、肝心の軸になるストーリーはそのショウやパフォーマンスのあいま、あいま、に語られることになる、そして、この、従来のサーカスの古典的パフェオーマンスが見ていて楽しい、見ごたえがあるのだ。動物たちのパフォーマンスだけではない、空中ブランコあり、道化あり、華やかにコスチュームをつけた団員たちによるパレードありで、観ていると、デズニーランドのパレードを彷彿とさせる、いや、豪華さにおいてはそれ以上かもしれない、実際、映画の中ではデズニーのキャラクターたちによるパレードも挿入されている、これは、お愛嬌か。

 

パーフォーマンスのあいま、あいま、に挟まれるストーリー、映画を観始めた最初には、ベティ・ハットン演じるホリーのオーバーアクションの演技に少しばかり閉口するのだが、観ているうちにそれも気にならなくなる。ロマンスあり、ライバル競争あり、秘密あり…予想以上に見せてくれるんだ、これが、ラストも悪くない、いい感じ。また、若きチャールトン・ヘストン演じるサーカスの団長が、又、いい、空中ブランコの花形、セバスチャンよりもいいよ、ちなみに、筆者はセバスチャン役の役者を、若き日のトニー・カーチスと勘違いしていた時があった、似ていると思いませんか?

 

地上最大のショウ(字幕版)

 

さらに、ジェームス・スチュワートが道化の役なんだが、ずっと映画の最初から最後まで道化のメークしたままで、素顔を見せるのは、映画のラストもラスト、しかも、写真に写っている素顔だけ、っていうのも結構スゴイ、、ヒッチコック映画の常連、あの、大スター、ジェームス・スチュワートが! もっとも、ジェームス・スチュワートがヒッチコック映画の常連になっていくのは、この映画の後ではあるが、まだ、大スター、とはいかなかったか???

というわけで、気が付いてみればこの映画はアカデミー賞ゴールデングローブ賞の作品賞もとっていたりして、賞をとっていればいいというわけでもないが、多少時代を感じる映画だが、悪くないと思う、いい映画だ、是非、昔ながらのサーカスを楽しんで!

 

地上最大のショウ(吹替版)

オール・ユー・ニード・イズ・キル  All You Need Is Kill     トム・クルーズ 主演

オール・ユー・ニード・イズ・キル(字幕版)

 

トム・クルーズ主演の映画、というので見に行った、トム・クルーズガンダムみたいな、ロボットスーツ着て、面妖なエイリアンギタイと戦う、というのは新鮮な気がした。しかも、或る原因によって、過去のある時間までさかのぼって生き返り、またそこから、スタートする、記憶だけは、どんどん経験を積んでいく、‥‥、シュールなアイデアで、戦闘経験ほとんどゼロの戦闘員だった、トム・クルーズ扮するキリヤ・ケイジが、どんどん強くなっていく。

 

映画は面白かった、面白かったのだが、何故か、いつになく、ハリウッドっぽくないイメージというか、アイデアというか、雰囲気を感じていたら、原作は桜坂洋という作家による、日本のライトノベルである、とわかった、なので、筆者はノベルも買って、読んだ、それだけ、インパクトがあって、かなり面白かった映画。死んでしまうと、生き返り、同じ過程を生き抜き、失敗したところをうまくクリアして先に進む、という、リセット感が、観ているほうにも、ゲーム感覚のようなものを感じさせて、それも、面白さの一つだったのか、実際、作者の桜坂洋さんが、Web上に公開されていたテレビゲームのプレイ日誌を読んで、この作品の着想を得た、と語っているそうである。

 

もちろん、ゲーム感覚だけがこの映画の面白さではない、キリヤ・ケイジがだんだん強くなっていくプロセス、死ぬことになった失敗を次にはどうやって回避して先に進んでいくか、といったストーリー展開、また、映画および小説には、もう一人、少女リタ・ヴラタスキという、戦闘能力の非常に高い、若き女兵士が登場するのだが、

徐々に変化していく、ケイジと彼女の関係も映画の面白さの一つ、圧倒的強さを誇っているギタイの裏をどのようにかいて、打倒ギタイへと進んでいくか、のストーリーも面白い‥‥主演がトム・クルーズでなくとも見たな、この面白さなら、と思った。

 

先ほどから、ギタイ、ギタイ、と何度も書いているが、この映画のギタイというのは惑星改造のためにエイリアンが地球に送り込んだマシンであり、惑星改造のために人類はじゃま、とみて、人類殺戮をミッションとする、映画はそんなギタイと人類の戦いの映画である、昔から、地球を侵略しようとするエイリアンと地球を守ろうとする人類のバトル映画は数限りなくあった、すぐに思い出せる限りでも、「インディペンデンスデイ」であるとか、同じくトム・クルーズ主演の映画、「宇宙戦争」とか、また、映画「オブリビオン」もこのジャンルに入ると思う。

 

宇宙戦争 (字幕版)

オブリビオン (字幕版)

 

 

こうしてみると、トム・クルーズっていうのは、案外、近未来を描いたSF映画に出演しているね、「マイノリティ・リポート」なんかもそうだし、この映画も面白いよ! 、トム・クルーズ といえば 「ミッション・インポッシブル」に代表されるアクション映画のイメージが強い、ニュースでは、トム・クルーズは次の映画は宇宙で撮影する、なんて言っていたとか、本当かどうだかは、まだ真偽不明。

 

 

 

マイノリティ・リポート (字幕版)

 

 

そんなわけで、この映画「オール・ユー・ニード・イズ・キル」は面白い! 、原作のライトノベルも面白かった、なので、映画が先でもノベルが先でも構わないから、ハラハラドキドキするひと時を過ごしたいと思ったり、面白い映画みたいなあ、なんて思ったならば、是非、この映画をどうぞ!  トム・クルーズ祭りでした!

 

ライトノベル ↓

All You Need Is Kill (スーパーダッシュ文庫)

 

ミッション:インポッシブル (字幕版)

 

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映画    風と共に去りぬ   :悪くないけれど残念な映画

風と共に去りぬ (字幕版)

 

映画「風と共に去りぬ」は、不朽の名作と言われてきた映画である、が、最近この映画が問題視されてきて、一部で配信停止、という憂き目を見ている、長年にわたって “不朽” の名作と言われてきた映画の何が問題となったのか、それは映画の中での黒人の描かれ方に問題があった。南北戦争を軸とした物語である、当然、アメリカ国内社会では奴隷制度が大手を振っていた時代だ、「風と共に去りぬ」の中でも、奴隷としての黒人が登場し、奴隷としての演技をする、そんな黒人の描かれ方が問題視される、人種差別的であると、又、奴隷制度を当然としていた当時の南部の社会の描かれ方にも問題ありと指摘された、美化していると。これらは、黒人の脚本家。ジョン・リドリー氏からの批判だった。

 

思うに、映画だけに限らず、小説、絵画、音楽、その他あらゆることで、そこで描かれていたり、話題になっている当の本人たちが、黒人に限らず、これは人種差別的である、と、反論した場合には、やはり、そこには問題がある、と考えなければならない。「風と共に去りぬ」も、黒人の立場から、そこに描かれている黒人の描写に反論が出た、”不朽“ の名作もちょっと立ち止まって、見直され、人々は気づき、問題だろう、ということになって配信停止、ということにもなる。

 

同じようなことは、「ちびくろサンボ」の物語にもあった、筆者も子供の時にこの物語を読んだことがある、「ちびくろサンボ」の物語は、せっかくそろえた新調の洋服や靴や傘を次々とトラに奪われていくサンボが気の毒で、トラが最後に木の周りをぐるぐる回ってバターになって、サンボたちがそのバターでパンケーキを作って食べて終わった結末は、めでたしめでたし、の童話だとばかり思っていた、子供の時も、そして大人になってからも。

 

が、この「ちびくろサンボ」にも、童話に描かれている黒人の側から、サンボの描かれかたが、黒人を馬鹿にしたような差別的な描かれ方であるとのオブジェクションがあった、この場合も、描かれている当事者から、そんなオブジェクションがあった、なので、どこがどう問題なのかが、考えられた、それまで、気づかなかったり、感じなかったりしても。

 

映画「風と共に去りぬ」も、問題だらけの映画になってしまったのだが、最後に、批判を受けている劇中の黒人の描き方や、奴隷制度やその社会については全く切り離して、切り離してはいかん! と、怒られるかもしれないが、ヴィヴィアン・リー演じる、とても強い、とても我儘、あきらめを知らない、スカーレット・オハラクラーク・ゲーブル演じるレッド・バトラーについて語ろうと思う。

 

スカーレット・オハラはとにかく強いのだが、なぜ、いつまでもアーシュレーなどに、未練を残しているのかわからなかった、アーシュレーのどこがいいのか、言っては何だけど、どう見てもアーシュレーよりもレッド・バトラーのほうが魅力的に見える、実際そのように描かれている、主役だしね、逆に、レッド・バトラーは実に忍耐強い、辛抱強いと感じざるを得ない、ラスト、はスカーレットの自業自得、っていう気もしないこともないが、子供の悲劇があったことは、気の毒だった。

 

ラストに、有名なセリフ “Tomorrow is another day.”って言ったって、ドラマチックな感動的音楽が流れったって、ターラの大地があったって、もう無理なんじゃない、とか、遅すぎるよ、とか、思ってしまい、ここまでのスカーレットとバトラーの関係は面白かったけれども、ラストシーンで感動、とはいかなかった、筆者は、残念だ。

 

レッド・バトラーのクラーク・ゲーブルはいい、クラーク・ゲーブルの映画は他に「或る夜の出来事」しか見たことがないが、やはり、「風と共に去りぬ」のレッド・バトラー役が一番いいのではないかと思う、他に一作しか見ていないのにわかるのか、と言われるかもしれないが、レッド・バトラーは実にはまり役で、この役を超えるのはそう簡単ではなさそうに思う。主役二人の演技はじつによかった。

 

或る夜の出来事 (字幕版)

 

この映画、不朽の名作という座から滑り落ちてしまい、一部では配信停止になってしまったが、依然としてまだ配信は続いていて、映画を観ることはできる。大切なのは、無批判に見ることではなく、問題点は問題点として理解してみることが大切か。そんな、「風と共に去りぬ」、主役二人の演技に免じて(?)悪くはないのだが、問題だらけ、というわけで、 ”悪くないけれど残念な映画“、 ’実に‘ 残念な映画(!?) としようと思う。