この映画を初めて見た時、正直言って面白さを感じなかった、よくわからなかったし、賞金稼ぎの話ではあるのだが、かつてはかなりの無法者だったという設定の、今では、寄る年波に勝てない、どちらかというとよぼよぼした、おじいさんガンマン二人が、若く経験も浅い、無鉄砲ガンマンと3人で、お尋ね者に立ち向かう、お尋ね者と言っても、売春宿の女たちが自分たちのたくわえを絞り出して、首にかけた懸賞金、どうもいまいち、パッとしない設定、ジーン・ハックマン演じる保安官とその取り巻きの悪役ぶりばかりが目立って、タイトルの「許されざる者」というのは、この悪党たちのことだな、と思っていたのだが、どうもこれもピンとこなかった。
アメリカでは、絶賛されて、アカデミー賞の作品賞、監督賞、編集賞、そして、ジーン・ハックマンが助演男優賞まで受賞した映画である、確かに、ジーン・ハックマンのあの悪党保安官ぶり、うまかった。そんな映画である、改めて見直してみて、以前よりはわかった気がしたが、どうも、やはり、まだピンとこない、どこがピンとこないのか、筆者は考えてみて、筆者なりに以下に述べるような映画であったか、映画「許されざる者」は、と理解した。
まず、この映画をわかりにくくした原因の一つは、タイトルの ”許されざる者“ というのをジーン・ハックマンとその一味、と理解したところから間違えていた。”許されざる者“ がいるのであれば、当然その対称にある ”許された者” がいるはずで、その ”許されたもの“ というのはこの映画においては、クリント・イーストウッド演じるウィリアム・”ビル“・ マニーという昔の荒くれものただ一人であり、マニー以外の映画の登場人物は皆、”許されざる者“ であった、と理解すべきである。
いったいこのマニーと他の登場人物とはどこが違うのであるか、マニーだって、現在は足を洗っているとはいえ、若いときは,めちゃくちゃに人を殺していた、とんでもない、無法者だったではないか、と大抵考える、当然、マニーだって ”許されざる者“ に分類されるだろうと。が、映画を観ているとわかってくるのだが、昔はとんでもない無法者だったこのマニーは、何故か ”誠実“ なのである、天然痘で亡くなってしまったが、奥さんが生きている間はもちろん、亡くなってしまった後ですら、その ”誠実“ さはかわらない。
売春宿の女に誘われるのだが、マニーはその誘惑をしっかりはねのける、亡くなってもなお奥さんのことを思って、かたや、マニーの相棒であるモーガン・フリーマン演じるネッド・ローガンは妻帯者でありながら、若いガンマンと一緒になって、売春宿の女と遊ぶ、その報いは早々にやってきて、保安官とその一味同様の ”許されざる者“ の運命をたどる。そのように見ていくと、若い無鉄砲ガンマンも、人一人殺した後には、ことの重みに怖気づいて、もう2度と人は殺さない、という、売春宿の女たちも、復讐は遂げたとはいえ、今まで稼いだ有り金全部持っていかれる、いいことはない。一方、亡くなってもなお奥さんに ”誠実“ であったマニーは、その未来までも明るく、成功の人生を送る。
でも、マニーだって昔は、無法者の人殺しだったではないか、と当然疑問を抱く方もいる。そこで、この映画では、聖書のあるエピソードを思い出さなければならない。それは、新約聖書、マタイの福音書第20章1節から16節にわたる部分で、”ブドウ園の労働者のたとえ“ と言われている。聖書のこのエピソードは ”So the last will be first, and the first last. For many are called, but few are chosen.“ (このように、最後にいるものが先になり、先にいるものが後になる。というのも、大勢の者が招かれるが、選ばれるものはほとんどいないから。)という、言葉で終わる。
どんなエピソードであるかは、聖書のこの部分を読んでほしい、と言いたいところであるのだが、聖書のこの部分を仮に読んだり、思い出したとしても、キリスト教徒ではない筆者にとっては、すぐに何を言っているかとか、どんな意味であるか、とか理解できるようなエピソードではないと思うし、実際そうであった。おそらく西洋の人々であるとか、キリスト教徒であるならば、映画「許されざる者」をみて、聖書のこのエピソードが即座に思い出されて、ピンとくるのかもしれない。実は、そのヒントは11年前に奥さんと出会ったというセリフにも隠されているし、他にもまだ、この聖書のエピソードを思い出させるヒントは映画の中にちりばめられているのであるが、それはまた、別の話。
さて、西洋の人々は、ピンときて、イーストウッド監督が、聖書のエピソードを見事西部を舞台にして映画化したことに称賛を送ったのではなかろうか、それが、映画「許されざる者」のアカデミー賞獲得へとつながったのか、と考える。イーストウッド演じるマニーは、ブドウ園に最後に来て一番働かないで、よく働いた他の人間と同じ賃金をもらった者、滅多に選ばれる者はいのに、ただ一人、神に許され寵愛を受けるに足る人間、と選ばれた者なのである。
映画に話を戻そう。劇中、マニー、ネッド、キッドが保安官らがいる街へ向かう途中の平原の描写は美しい、また、彼らと保安官一味の銃撃戦も迫力があるなど、見せ場はある、派手なアクションで包まれた西部劇ではなく、残虐な描写も無きにしも非ずだが、全体として静かなトーンに包まれた西部劇である。それも、きっと、聖書をベースにした物語であるから、と筆者は考える。
劇中では、何故、マニーの奥さんになる女性が、残忍、無慈悲の荒くれものだったマニーに惹かれて、彼と結婚したのかは語られなく最後まで謎である、また、なぜ、奥さんが、そんなマニーに足を洗わせることができたのかも語られることはない、が、筆者は不思議であった。
おそらく、この女性は天使であった、と筆者は勝手に想像する。神様は、この残忍な無法者の中に愛する者への ”誠実さ“ をみた、なので、彼の元に天使を使わし、彼に手を差し伸べ、彼を選んだ、映画からも想像できる通り、あの西部の時代にあって、”誠実さ“ をもっていて、その ”誠実さ“ に従って生きることのできる人間は少なかったに違いない、が、マニーにはそれができた。
この映画の面白さを理解するには、やはりこの聖書のエピソードは大切なポイントであると筆者は考える、それを知ったうえで映画「許されざる者」を見ると、最初に書いたこととは全く違った映画の顔を発見でき、この映画の面白さを味わうことができるのでは、と感じる、案外、重い映画なのだ、クリント・イーストウッド監督、やはり、さすが、と思うのでした。