Kororon 映画について語るBlog

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映画  スミス都へ行く    ジェームス・スチュワート  主演  

 

スミス都へ行く [DVD]

 

 

 

スミス氏はアメリカの片田舎のボーイスカウトのリーダーで、子供たちから絶大な人気を得ていた、竹を割ったようなまっすぐな人間で、バカが付くほど正直、誠実、曲がったことは決して行わない、という、或る意味、聖人のような人物なのである。かたや、そんなスミス氏がひょんなことから入っていくことになる政界というのは、日本の政治、政治家を見ていてわかるように、こう言っては何だが、一癖二癖もある、老練、老獪な、ベテラン政治家たちがひしめき合っている世界で、まっすぐで正直なことばかりが行われているわけではなく、汚職、だましあい、嫌がらせ、などなど、スミス氏の心情とは相いれないことが、平然と行われてしまう世界である。

 

では、そんなスミス氏がなぜ政治家になる羽目になったかというと、政治には全くに素人であるスミス氏であるがゆえに、お飾りとしておいておけば、老練な政治家たち、自由勝手に不正も、汚職もできよう、スミス氏は適当に、あしらっておけばよい、という理由で、単純至極なのだが、割とひどく、スミス氏を馬鹿にしている理由で死亡した議員の後釜として選ばれた。が、さすがにスミス氏も全くのバカではなく、自分の立場と選ばれた理由をやがて知ることとなり、失意のうちに故郷に帰ろうとするところ、或るきっかけでその決意を翻す。

 

中国の言葉に “鶏口となるとも牛後となることなかれ” というのがあるが、スミス氏はまさに ”鶏口“ であり、小さな集団どころか、鶏口のくちばしの先で、スミス氏ただ一人だけが戦っているといった方が当たっているように思われる。巨大な政治の力は、スミス氏の繰り出す数々の戦略をことごとく踏みつぶして、とてもスミス氏に勝ち目はなさそうだ、と観ているものに思わせる。政治の圧力はこんなにも巨大であり、世論や一般の人々は、いともたやすく操作されるものであるか。

 

そんなスミス氏がとった戦術が “牛歩” 戦術、ならぬ、”牛舌(ぎゅうたん)“ 戦術。牛歩戦術は、最近は見ないが、以前日本の国会でも野党が時折用いていた戦術で、ピンとくるのではなかろうか、では、”牛タン“ 戦術、とはいかなるものか、それは例によって、映画を観て確かめてもらいたい。日本の国会で牛歩戦術を見せられた時には、何か滑稽で、ばかばかしさすら感じてしまったのだが、映画「スミス都へ行く」で、スミス氏による牛タン戦術には、何故かスミス氏を応援したくなってしまう、というこの気持ちの違いは、おそらく、劇中のスミス氏の心意気が、純粋でまっすぐであり、牛歩戦術をしていた日本の国会議員との心とあまりにもかけ離れていたせいではないか、と思ってしまう。

 

映画の原題は「Mr. Smith goes to Washington」であり、本来は ”スミス都へ行く“ ではなく ”スミス、ワシントンへいく“ であり、日本でならさしずめ ”スミス永田町へ行く“ となるところか。”ワシントン“ とすると、より、政治的、政治家的ニュアンスを感じられるタイトルであるのだが、”都“ としたところに、田舎での生活しか知らぬスミス氏が政治の大きさだけではなく、都会の大きさにも驚愕していく様が感じられる、うまいタイトルの付け方ではないか。

 

映画「スミス都へ行く」では、若き日のジェームス・スチュワートを見ることができるが、ジェームス・スチュワートという役者は、年を重ねていけばいくほど、渋くて味のあるよい顔になっていく役者ではないだろうか、そういった役者はほかにもいると思うのだが、ジェームス・スチュワートの場合、映画「スミス都へ行く」から、10年以上後に作られた、ヒッチコックの映画「裏窓」や「めまい」で見る彼のほうが、数倍もいい役者に見える、もちろん、この映画でも純粋な青年政治家を見事に演じているのだが。

 

果たして、この孤軍奮闘する若き、誠実、まっすぐ、正義感溢れるスミス議員は巨大政治組織との戦いに、勝利することができるのであろうか、それとも、無惨、つぶされてしまうのだろうか。それは映画をみてほしいのだが、スミス議員が勝利するとしたら、それには彼の誠実さと真剣さがどこまで、人々の心に突き刺さって、人々を動かすことができるかにかかっている。