Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画  存在のない子供たち     ナディーン・ラバキー 監督

存在のない子供たち(字幕版)

 

 

息子が両親を訴える、その罪状は? と問われ、息子は答える、「僕を生んだ罪」と。何やら、衝撃的なオープニングの映画なのである、しかもこの息子は12歳か14歳くらいの年はもいかない少年であり、人を刺した罪で逮捕されている。12歳か14歳といって、はっきりした年齢を書くことができないのは、この少年の出生届が出されておらず年齢がはっきりわからない、日本で言ったら、戸籍のない子供、ということになろうか、とにかくも、自分が何者であるのか証明できる、証明書を持たない子供、なのである。

 

そんな少年ゼイン君がこの映画の主人公であり、映画はゼイン君が逮捕されるに至るまでの、彼の劣悪で、悲惨、かつ、絶望的な境遇を回想という形で物語ってゆく。絶望的かつ将来への希望ゼロの子供たちが、この映画にはまだまだ登場する、何も、ゼイン君一人だけではない。ゼイン君の姉妹、しかり、ゼイン君を助けてくれた女性の赤ちゃん、しかり。この赤ちゃんは、今度は、その母親の不幸な境遇により、なんと、ゼイン君が面倒を見る羽目になる。細身で、小柄なゼイン君がこの赤ちゃんを、抱っこしたり、おんぶしたり、手製のカートにいれたりして、スラム街を歩き回るシーンは、胸が痛みすぎる。二人の運命のあまりの絶望感に言葉も出てこない、と言ったらいいだろうか。

 

貧困をテーマにした映画、本は多々あり、それぞれの作品、書物が様々な角度から社会の貧困をとらえ、映像化し、又、書物としてきた。そして、今回の映画「存在のない子供たち」のメインテーマは、出生証明書がない子供の運命である。現実の世界においても、世界ではなお一億6.600万人の5歳未満の子供が出生証明書を持たないという、気の遠くなるような数。日本においても、約800人もの戸籍を持たない子供が存在するという。出生証明が届け出されないとどうなるかということは、この映画で描かれている通り。教育は受けられない、社会保障は適応されないなどなど、まさに映画のタイトル通り ”存在がない“ ものとして扱われる。

 

が、そんな言葉を絶するほどの絶望的状況の下、数々の仕打ちに打ちのめされながらも、ゼイン少年はたくましく生き抜いていく、映画ではゼイン少年を見舞う不幸とともに、そんなたくましいゼイン少年の姿も描かれる。たくましい精神なのであるが、観てる方は痛々しく、そのどう考えても報われぬ、救いのない勇気とわかってしまうゆえに、さらなる絶望感を見ているほうは感じる。

 

そして、映画は最初に戻る、この希望ゼロの壁を打ち破るためにゼイン少年は知恵を絞り、一つの突破口を開こうとする。ここら辺がこの映画の救いになるか、ラストでは、絶望的、希望ゼロの分厚い壁に、ゼイン君が小さな、小さな穴をあけたところで、エンドとなる。小さな、小さな穴であるが、この穴が、やがて鉄のカーテンのごとき壁を崩す、大きな穴となることを期待させる。また、そうなることを映画を観ている観客は願わずにはいられない。

 

レバノンの問題を描き、レバノンだけにはとどまらぬ、世界中、日本においても存在する社会問題を描いた秀逸な映画。筆者が観ることを勧められたように、筆写も皆さんに勧めたい‥‥そんな映画かな。