Kororon 映画について語るBlog

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映画 わが谷は緑なりき    ジョン・フォード監督  

 

わが谷は緑なりき(字幕版)

 

モーガン家という善人を絵で描いたような人たちが集まる一家がある、彼らはイギリス、ウェールズの小さな谷間の村に住んでいる、この村は炭鉱の村であり、住民はみな村にある鉱山で炭鉱を掘るのが仕事である、モーガン家は両親、6人の息子、一人の娘の9人家族であり、父親と5人の息子たちが炭鉱で働いている、一人、他の兄弟たちから年が離れている、まだ子供の末っ子のヒューが物語の語り手であり、この映画は、この末っ子の少年ヒューの思い出話として語られる物語である。実際のヒューは、すでに、50になる中年であり、映画の冒頭、50になったヒューが、この村を去ろう、というくだりから物語は始まることになる。

 

正直、誠実がモットーのモーガン家の人々の生活は、平和そのもので、一家は幸せに、炭鉱の村で暮らしている、が、そんな彼らの幸せな生活にも、事件が起き、波風がたち、不幸にも見舞われ、山あり谷ありの人生をモーガン家の面々は生きていくことになる。まず、鉱山主による突然の賃金カット、これによって組合を作るとか、ストをするとかで、家族は対立する、それによっておこる悲劇、長男の結婚、娘の恋、ヒューの学校生活‥‥と、事件は次から次へと枚挙にいとまがない。

 

そんな中で、この映画を観ていく上での鍵になる二つのシーンがある、まず一つ目は炭鉱の賃金カットの際、組合を作るとか、ストをやるとかいって、父親と5人の兄弟が対立する場面がある、兄弟は意見の対立する父親に向かって、家を出ていくといって、食事の席を立つ、食卓に残された、父親、そして、少年のヒュー、一人、息子たちの反抗を苦々しく思いながら、ただ黙々としている父親、その父親に向かって、“僕がいるよ、僕がここにいるよ、どこにもいかずに” と、食器を鳴らしながらアピールする少年ヒュー、父親は一言「わかっているよ」と。

 

もう一つのシーンは、長男が結婚することになり、その相手の女性がモーガン家を初めて訪れた時のこと、彼女の名前はブローウィンという、ヒューはこの兄嫁になる女性、ブローウィンに一目見て恋をしてしまう、このヒューの恋は、物語が進行していく中で、このシーン以外特段語られることはないのだが、ヒューが兄嫁ブルーウィンに恋をしてしまった、ということは頭の片隅に入れておかなければいけない、ポイント。

 

家族の中でただ一人学校へ通い、首席で学校を卒業したヒューには、兄弟たちとは異なる未来が開けていた、さらに進学して学問を続け、医者に、弁護士に、教師にと、が、ヒューはそのどれをも選ばずに、村に残って、父や兄たちと同じ炭鉱夫になる道を選ぶ、別に炭鉱夫が悪いというわけではないが、父親は教育を受けたヒューに、他の兄弟たちと異なる未来のひらけていることを、ヒューのためにも喜ばしく思っていた。ところが、ヒューはその異なる道のいずれも選ばず、炭鉱夫になると告げる。父親は、驚きと、まあ、失望というか、がっかりして、酒でも飲まなきゃやってられない、という気持ちになって酒場へといく。

 

筆者も全くこの父親と同じ心持になった、何で、ヒューはせっかくのチャンスを生かすことなく、今までの努力を無にするような選択をするのであるか、と。が、ここで、先に述べた二つのシーンがクローズアップされて、観客は思い出すことになる。まず、ヒューは善良な人間であり、少年ながら家族思いである、また、長男の嫁、ブローウィンに恋をしていたのである、そのヒューの恋心は消えることなく、ヒューの小さな胸の内でずっと燃え続けていた、と。そして、50になるまでずっと、村を出ることなく、炭鉱夫として、母親のために、ブローウィンのために、そして、ブローウィンがしわくちゃのおばあさんになった後も、おそらく、これは筆者の想像でしかないが、彼女が亡くなるまで、この炭鉱の村に炭鉱夫としてとどまった。

 

そして、映画の冒頭に戻る、兄弟たちは、おそらく姉も、全員、村を出たか、すでに亡くなったものもある、父親、母親はすでに亡くなっている、そして、最後まで残ったブローウィンも亡くなった、ヒューを村に引き留めるものは、もう何もない、家族と恋のために生きた、誠実で善人のヒューであった、そんなヒューの思い出の話がこの映画である。

 

少年時代のヒューをはじめ、モーガン家の人々はみな魅力的なのである、”悪“ に魅力があるとするならば、モーガン家の人々の魅力は ”善“ の魅力、といったらいいか、人間もちろん ”善“ だけで生きてはいけないというのが、現実ではあると思うが、この映画は、”善“ の魅力を徹底的に描いた映画、といってもいいだろう。ただ、”善“ の魅力を描くにあたって選ばれたのは、労働者階級の炭鉱夫の家庭であり、どちらかというと、貧しく、つつましやかな家庭である、裕福に金持ちになればなるほど、”善“ からは遠ざかるということか、ジョン・フォード監督の思いはいかがなものであたであろうか。

 

 

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