アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品であり、フェデリコ・フェリーニ監督の代表作の一つといわれたり、ネオリアリズム映画であるとか、言われたりしている映画である。映画の冒頭で、主人公の少女ジェルソミーナは二束三文で、大道芸人のザンパノという男に売られてしまう、この男は、以前、ジェルソミーナの姉を、同じようにこの家族から、おそらくその時も二束三文と想像されるが、買っており、その姉が亡くなってしまったので、姉の代わりにジェルソミーナを買いに来た。フェリーニはさりげなく、あっさりと、さらりと映画の冒頭で描いているが、これは、人身売買ということであろう。あまりにも、さらりとこのシーンは描写されているので、みているほうは、この、結構、重大な事実を映画を観ている間に忘れ去ってしまうかもしれない。
映画は、そんな風にして、大道芸人のザンパノと旅をしながら生活するようになった、ジェルソミーナとのロードムービーであり、大道芸人ザンパノの助手として、ジェルソミーナ自身も芸を披露するようになり、いろいろな事件や出来事が起こっていくのを、フェリーニは見せる、旅をしているうちに、ジェルソミーナも次第にザンパノになついていき、好意を持ったりもする。
かたや、ザンパノのほうはどうかといると、最初は “物” 同然だったと思われるジェルソミーナに、少しづつ好意を抱くようになって、少しづつジェルソミーナを人間扱いするようになっていく。が、あくまでもこの男は自分本位の人間であるので、ジェルソミーナに最後まで責任を持つわけでもなく、やはり、生きるための ”金“ が何よりも大事、ということもあって、この二人の旅は、なるべくしてなるようにしかならない。
ラスト、観客はザンパノが一人嘆き悲しむ姿を見せられることになるのだが、果たして、この男が、心の底から悲しみ、後悔しているかどうか、と考える時、それは疑わしい。もしかしたら、本心からの嘆きなのかもしれないが、おそらく、長くは続くまい、一時的なものであろうこの嘆きは、と筆者は考える。ここで、映画はラストを迎えるわけなのだが、観客は映画の冒頭に戻ってみよう。
ジェルソミーナの家族には、まだ、幼い妹がいたではないか、この男は、いずれまた、ジェルソミーナの家族の元を訪れ、同じことを繰り返すのではなだろうか、ジェルソミーナがザンパノとたどった道は、ジェルソミーナの姉がザンパノとたどった道と同じであろう、貧困から抜けだすことができぬ限り、ザンパノは同じことを繰り返す、出口の見えぬ貧困とは、もしかしたら、そういうものか。
ケン・ローチ監督のイギリス映画に「レディバード・レディバード」という映画がある、こちらも、イギリスの貧困を描いた映画であり、ケン・ローチ監督描くイギリスの貧困さに、或る意味言葉を失った感があった。また、アメリカ映画にもリー・ダニエルズ監督による「プレシャス」という映画があり、「プレシャス」でも主人公の黒人少女かなり重篤な貧困に苦しんでいるのだが、この少女は希望という出口を見出していける幸運に恵まれる。
1954年に「道」、1994年に「レディバード・レディバード」、2009年に「プレシャス」と、映画の監督、もちろん、国も異なるが、”貧困“ をテーマとした映画が撮影され続け、貧困という社会問題は、持てる者と持たざる者の格差がますます広がる現代においても、普遍のテーマとなって、様々な映画が撮影され続けているのではなかろうか。
つい最近のニュースでも、このコロナ禍にもかかわらず、GAFAという巨大企業の収益はプラスに上がり続けているという、日本でも巣ごもり需要で、家庭で遊べるゲーム販売の大手会社は収益プラス、一方、町の飲食店や観光業は客足が途絶えて、生活にも困る、自殺者の数も少なくないという現実。
映画「道」は、60年以上も前のイタリアの現実を描いた映画、60年前の現実は60年たった今も変わらぬ同じ現実、科学の進歩は目を見張る21世紀であるが、社会の進歩は牛歩のごとく、ああ、今年は丑年、もちろん、牛さんを責めるわけではないけれど、この社会の進歩は、もしかしたら、牛さんの歩みよりも遅いかもしれないね。
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