ゴジラは知っていたが、 ”ゴジラ映画“ を見るのは初めてである、映画「シン・ゴジラ」では、ゴジラのことを ”怪獣“ と呼ばないが、その怪獣が出てくるTVドラマや、映画というと、どうしてもウルトラマンシリーズを思い浮かべてしまう筆者である。映画「シン・ゴジラ」は大ヒットし、数々の賞を受賞した映画であり、公開当時、ちょっと気になっていた映画であったのだが、観るタイミングを逸し、今回初めて観ることとなった。では、観てみて、どうだったか‥‥? どうだったかというと‥‥面白かったです、十分映画を楽しんだ筆者でした。
が、映画「シン・ゴジラ」で、ゴジラがゴジラらしくなったのは、ゴジラが東京湾の海に消えて、再び鎌倉の稲村ケ崎に上陸してからであり、それまでのゴジラは、全く ”ゴジラ“ らしくなく、二足歩行もできずに蛇のように体をくねらせて移動していた、この時アップになったゴジラの顔を見て、あまりの漫画チックなゴジラの顔に、筆者は動揺し、まさか、全編、このゴジラで通すつもりなのか、と思い、このまま映画を観続けるべきなのかどうか、と迷った。稲村ケ崎に再上陸してからのゴジラはまさに無敵、アメリカ軍の戦闘機もことごとく撃墜して、防衛側は打つ手なし、やっと本来のゴジラになって、面白くなってくる。
本来のゴジラになってからのゴジラの破壊力はすさまじく、日本の自衛隊にはゴジラを止められず、どう収拾をつけるつもりか、と考えるに、もうこうなったら核兵器を使う、という流れ、もしくは、ウルトラマンでも登場させないとゴジラを倒すのは無理だろう、と思っていると、多国籍軍が編成されて乗り出してくる、そして、案の定、核兵器でゴジラを ”駆除“ する、と展開し始める。とはいえ、ゴジラを倒すためとはいえ、東京に核爆弾を落とすという展開はスゴイ、と思った、戦争と違うので住民を避難させる、という展開になるのだが。
もちろん、日本側はそんな展開は何としてでも避けたい、というわけで、日本人の英知が結集され、核爆弾投下のタイムリミットまでに、日本が核爆弾に代わるゴジラ撃退法を見つけ、ゴジラ ”駆除“ に成功するかどうか、というところが映画の見どころとなり、このあたりの展開は、スリルがあり、ハラハラドキドキ、うまい、中でも、 ”無人在来線爆弾“ とかいって、山手線らしき車両がゴジラ向かって突っ込んでいくシーンはおもしろい、また、何台ものタンクローリーがゴジラの体内に血液冷却液を流し込んでいくシーンもいい。原子爆弾やハイテク装備のアメリカ軍の攻撃に比べて、アナログ的低予算仕様の攻撃がいい、しかも、そんな日本の攻撃が金のかかったアメリカ軍の攻撃よりも、ゴジラの急所を突く、ここら辺もやはり、ハラハラドキドキ、面白い。
映画「シン・ゴジラ」で上記のような英知にたけた作戦を展開するのは、総理大臣以下、お年を召した政府の高官たちが行方不明になった後の、臨時総理大臣以下の、どちらかというと若い閣僚たちなのである、映画冒頭では、慣例、規則に固まった高官たちが、右往左往しながらおろおろするゴジラ対策、一向にピンとこない姿を見せられる。ゴジラ対策全くできない姿が、現実のコロナ対策一向にピンとこない政府とイメージがオバーラップしてくるのである。そんな中で、使命感、責任感に燃える長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂はカッコいい、この矢口内閣官房副長官をはじめとして、若い政治家、官僚たちは現状打破のために、必死に知恵を絞る、ここら辺のポジティブさもいい、もっとも、必死に知恵を絞らないと、核爆弾を東京に落とされてしまうからね。
このように、映画は、世界の多国籍軍やアメリカ軍vs日本軍、また、古参の政治家や官僚vs.若い閣僚や官僚 という形をとりながらゴジラに立ち向かってゆく、ゴジラvs.人間だけの戦いでないところも面白い。映画のラストに、矢口蘭堂は日本人は “スクラップ & ビルドの国民だから” というようなことを言う。たしかに、戦争でスクラップされたが、戦後見事にビルドした、劇中でもゴジラにスクラップされた首都圏をしっかりビルドするのであろう、ならば、現実の世においても、コロナ禍でスクラップされてしまった日本を、コロナが終息した後には、しっかりビルドできるだろうか‥‥きっと、できると信じたい。