Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画  キリング・フィールド     ローランド・ジョフィ 監督

 

 

キリング・フィールド HDニューマスター版 [DVD]

 

 

アメリカ人でありNYタイムズの記者、シドニー・シャンバークとカンボジア人の記者、ディス・プランはカンボジアの内戦を取材している、次第にポル・ポト率いるクメール・ルージュの勢いが強くなり、アメリカ軍は撤退し、カンボジアクメール・ルージュの支配する地となる、この映画はそんなポル・ポト政権下のカンボジアの様子を見るものに伝える、又、アメリカに帰国することなく、また、アメリカへ逃げることなく、ポル・ポト政権下のカンボジアにとどまり、内戦の取材を続けてゆく、特派員シドニーと現地新聞記者プランの二人の物語でもある。

 

この映画を観始めてすぐに思い出したのは、以前紹介したことのある韓国映画「タクシー運転手」であった、映画「タクシー運転手  約束は海を越えて」も、一部の地域であったが韓国の内戦を描き、外国からの特派員とその取材に協力することになった現地のタクシー運転手の話であった、かたやタクシー運転手とかたや新聞記者、職業は違えど、似たようなシチュエイションであり、自国の内戦を世界に知らせようという行動に変わりはない、そして、さらに、映画を離れて現在進行形で起こっているミャンマーでの内戦というか、ミャンマーでの出来事、さらに、さらには、香港で起こっている民衆と国家の戦いに思いを馳せるのであった。また、劇中でクメール・ルージュの幹部が言った ”間違った芽“ というか ”異なる思想は徹底的につぶす“ といった意味のセリフが、ミャンマーの軍事政権の幹部がテレビの会見で言った、正確には記憶していないが、”腐った野菜は全部処分する“ とか、そんな意味のことを言ったことが思い出され、ゾッと悪寒が走った、このセリフも思想の異なる人々を排除していくということである。

 

英語には “depopulate” という単語があり、“~の住民を減らす/ 絶やす” という意味であり、この単語を初めて目にしたのは、ヒットラーのセリフの中で、ポーランドの国民の数を減らす、という趣旨のセリフの中で使われたのを見た時であった。この時は、一個人としての人間が、この言葉を使ったことのインパクトに圧倒され、しばしそこにたたずんでしまい、ヒットラーの所業に、やはり、ゾッとした。ポル・ポト政権下、クメール・ルージュの虐殺により、カンボジアの人口の3分の1もの命が奪われたという、凄まじい大虐殺。世界というか、人間の性は全く変わっていない。

 

映画では、シドニーとその仲間である西洋人の特派員は無事にカンボジアから脱出できるが、カンボジア人のプランだけは、仲間の必死の努力にもかかわらず、カンボジア脱出はかなわず、クメール・ルージュの農場で強制労働させられることになる、その強制労働させられている最中においても、些細なことで命を奪われる虐殺の様子が描写される、プランは果たしてこの地獄を生き延びられるのか、果たして、シドニーとの再会は果たされるのか‥‥、もちろん、そこのところは映画を観てほしい。

 

この映画では、カンボジアポル・ポト政権下の残虐さを見ることができる、もっとも、この映画の映像ですらまだ十分ではない、伝えきれていない、というジャーナリストもいるようだ、が、少なくとも、当時のカンボジアの悲惨さを垣間見ることはできるフィクションである。さらに、カンボジア人ディス・プランを演じた、ハン・S・ニョールは、本業は医師であり、実際に、クメール・ルージュの元で強制労働に就かされた経験を持つという、映画後半の主役は彼であり、そんな映画後半は、やはり、見応えがある。また、クメール・ルージュに記者たちが拘束されてしまうエピソード、フランス大使館でのエピソード‥‥と、思わず息をのむ見せ場もある。

 

この映画は、後にピューリッツァー賞を受賞した、実在のシドニー・シャンバーグ特派員の体験に基づく実話を映画化したものである、実話をもとにしているといってもドキュメンタリーではない、あくまでフィクションである、そこのところを勘違いしてこの映画を観てはいけないと感じる。