オープニングが衝撃的である、原始の地球、人類の誕生はまだなく、原始猿が徘徊しているのだが、’モノリス‘という石板に偶然触れることにより、道具を使い始め、人類の誕生となるくだり‥‥文明は進歩して、突然宇宙空間の映像へ‥‥初めて見た時は衝撃的だった。この ’モノリス‘ というのはだれがいつ持ってきたか、はっきりしたことは最後まで分からずじまいで、とにかくそこにあった、エイリアンが遠い宇宙の果てから持ってきて置いていったのか、この惑星に知的生命体を誕生させてみようか、と気まぐれでも起こしたのか、想像はいくらでも膨らんでいく、が、明確な答えはない。
代わって、宇宙技術も進歩した地球にかわり、これも初めて見た時は目を見張って感動した宇宙シャトルと宇宙ステーションの映像へと変わる、この間、ヨハンシュトラウスの美しき青きドナウが流れ続けていて、効果としても素晴らしい。シャトルの中ではアテンダントが地場付きの宇宙服を着ているのか、無重力にもかかわらず地球同様に歩いている、乗客のペンが無重力の中に飛び出しそうになるのをキャッチして、ポケットに戻す‥‥感動的に見ていた。
映画は人類が有人の木星探査機を飛ばす、というストーリーで展開していく。この木星探査機にはHalという、人工知能を搭載したスーパーコンピューターも積み込まれている、このHalがストーリー展開していく上でのキーパーソンならぬ、キー’コンピューター‘、キー’AI’ となっていく。リアルの現代でも人工知能の開発、発達は目を見張るものがあり、この先将来も人工知能はまだまだ改良されていく可能性は大きい。この映画は邦題が‘2001’年宇宙の旅 という。‘2001’年である、2001年を想像して、2001年以前に作られた、この映画が公開されたのは1968年、今から20年以上も前に作られた映画だ。
キューブリックの卓越した想像力に脱帽をせざるを得ない映画であると思う、が、約20年後の現代でも映画2001年で描かれたような世界にはまだ到達していない、だいぶん、少しだけれど、近づいてきた気はするが、キュ―ブリックの想像力のほうが先をいっている。このように、SF映画や、SF小説で描かれた地球のほうが現実の地球を飛び越えていて、現実の地球は全然、フィクションに追いつかなかったなあ、と、感慨深く思える作品はまだほかにもある。例えば、ジョージ・オーエルの「1984」であるとか、これは、追いつかなくてよかった、と思える小説、だが、似たようなことが現実社会でも起こったか!と思わせる事件は時々報道される。
人工知能Halを搭載した有人宇宙船の探索がどのような展開をしていくかは、映画を観てほしい、この映画は素晴らしい、どこがどう素晴らしいかというと、月に居住が可能となった時代の宇宙空間を見事に映像化した点であるとか、オープニングから流れる音楽の選択がいいとか、AIを積んだ有人木星探索の設定や、探査機がいいとか、いろいろあって、いい映画だと思う。が、にもかかわらず、この映画を素直に ”いい映画“ のカテゴリーに分類するのがためらわれる、何故?
映画を観た当時、ラストがよくわからなかった、抽象的過ぎて、ラストにストレスを感じた、思うに、おそらく、ブラックホールに突入して、ゆがんでねじれた時間空間に入り込んでしまい、過去にさかのぼってしまった木星探索機のボーマン船長が、時をさかのぼりすぎて胎児にまで戻ってしまった、ということなのか‥‥よくわからないが、そうではないか、と思う。よくわかる人にはよくわかるのだと思うが、残念ながら、ラストとラストシーンで消化不良になってしまった。だから、この映画を ”悪くないけれど残念な映画“ に分類しようかな、と迷ったりする、いつも言っている映画を観終わった後の ”余韻“ が感じられない、というわけで、キューブリックとアーサー・C・クラークの才能に感心しながらも、この映画は ”悪くないけれど、残念な映画“ としたいと思う。
#SF映画#スタンリー・キューブリック#2001年宇宙の旅#アーサー・C・クラーク