Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

 映画「64(ロクヨン)」    佐藤浩市 主演 /  横山秀夫 原作

 

64-ロクヨン-前編

 

「64(ロクヨン)」というのはなんの数字か? とまず、最初に思うのではないかと思う。“64” というのは、昭和64年のことであり、天皇崩御のために、わずか7日間しかなかった昭和であり、その7日間に起こった事件がこの小説の核になるところ、この映画の核にもなるストーリーなのである。

 

  筆者は映画も見て、小説も読んだのであるが、思うに、筆者はもしかしたら、映画のほうが小説を越えているのでは、観ているものを引き込む力があったのでは、と思ってしまった。小説ももちろん悪くはないのである、核になる昭和64年の事件、警察とマスコミの攻防、警察内部の抗争、主人公、三上警視の家庭問題、などなど、様々なストーリーが複雑に絡み合って、紡ぎあいながら、物語は展開していくのであるが、筆者が初めてこの小説を読んだ時に感じた感想というのは、事件がなかなか起こらないなあ、というものであって、小説の後半になって、映画ではズバリ、後編であるのだが、とにかく、小説の後半になって、やっと物語が展開し始めたというか、回りだしたというか、そんな感想を抱いた、そこにたどり着くまで、マスコミ、警察内部、もちろん、後半の事件に関連する様々な出来事が起こるのであるが、筆者にとっては、少々長すぎた‥‥と感じてしまったのである。

 

  では、映像のほうはどうなんだ、と問われるであろう、今回の映画「64(ロクヨン)」についていうならば、映像では前半の肝心の事件が起きる前の、いわゆる、前置きをうまく視聴者の関心を惹きつけながら、忘れてはいけないよ、14年前の昭和64年の事件のことも、と、ちゃんとフォローしながら、映画は進んでいく、それに、役者の演技もうまいので、観ていて飽きない、マスコミとの確執も、うまく、映像にして、映画後半につないでいった、と、かなり、筆者は評価しているのである。

 

  警察内部の様子、であるとか、警察の内部事情、などは、筆者はTVドラマ「相棒」のファンであり、TVドラマ「相棒」を頻繁に見ているので、割と、見慣れた映像なのである。こちらは刑事2人の相棒のドラマであるのだが、同時に、或る意味、警察内部の様子もよくわかる、警察ドラマ、とも言えたりする。ただ、三上警視の所属している広報課とこちら ”相棒“ の広報課を比べてみると、かなり、様子の違う広報課が描かれている、もっとも、舞台も前者はD県警、後者は警視庁と、舞台となる場所が異なるのだから当たり前と言えば当たり前。

 

  ただ、今回の映画「64(ロクヨン)」では、刑事ドラマ、警察ドラマ、などでは、とかく、スポットライトを浴びることが少ない、広報課、という部署に、思い切り、スポットライトを浴びさせて、匿名報道か、実名報道か、をめぐって、三上警視とマスコミとのバトルを描いたところに、今までの警察ドラマにはなかった、新しさがあったかとも思われる。だた、匿名か実名かという、三上警視とマスコミのバトルは、先にも書いたこの映画の核となる昭和64年に起きた事件とは、直接には、全くかかわりを持たない。確かに、新しい斬新な切り口ではあるのだが、映画の核心、言い換えると、小説のストーリーの核心、とは直接のかかわりを持たないだけに、小説を読んでいた時には、妙に前半長いなあ、と、筆者が感じてしまった所以ではないのかと思う。

 

64-ロクヨン-後編

 

  では、後半はどうなのか? 後半では、事件は急展開する、もちろん、“64” で起きた事件の真相も解明され、過去と現在で起きている様々な事件の伏線は回収され、手に汗握り、ハラハラ、ドキドキさせられ、食い入るように、と言ったらおおげさかもしれないが、とにかく、時のたつのも忘れて映像を見ることができるのである。TVドラマ「北の国から」で、実にうまい子役であった吉岡秀隆君の警察官役もいい、彼の残した ”幸田メモ“ というのも事件と大きくかかわってくる、また、三浦友和演じる捜査一課長もいい、犯人を追う捜査車両の中で、三上警視を恫喝するところは、実にカッコいい、と思った。そして、もちろん、主役である三上警視、マスコミとのバトル、家庭での苦悩、64事件の犯人を取り逃がしたことへの自責の念…などなど、演ずる佐藤浩市の演技がとてもいいと、思う。

 

やはり、前半、後半、供に、見所のある映画なのである、なので、やはり、この映画、一度は見ても “いい” 映画かな、と思う次第。未見の方は、是非どうぞ。

 

 

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映画 北北西に進路を取れ   ケーリー・グラント 主演/    アルフレッド・ヒッチコック 監督:      悪くないけれど残念な映画

 

 

北北西に進路を取れ(字幕版)

 

ヒッチコックの作品にはヘンリー・フォンダ主演の映画「間違えられた男」という作品もあるのであるが、この映画「北北西に進路を取れ」も、やはり、或る意味 ”間違えられた男“ というのが、ことの始まりであり、前者は実話をもとにしたストーリーであるようだが、後者、ここで取り上げる映画「北北西に進路を取れ」は、フィクションの物語であり、ケーリー・グラント演じる広告会社の重役ソーンヒルが、自分でも気づかない或るちょっとした偶然のいたずらから、スパイのキャプランという男と間違えられてしまい、とんでもない災難と冒険へと駆り出されるという物語である。

 

まず、冒頭の ”間違えられ方” がうまい、さりげなく、ごくごく自然な成り行き、これではちょっと防ぎようがない、というくらいの偶然性、ソーンヒルは実に災難、運が悪い、と言わざるを得ない。どこのどんなシーンであるかは、映画を観て確かめてほしい。この映画の見せ場はいくつもあるのだが、やはり、シカゴの郊外の広大な平原で、軽飛行機に襲われ銃撃までされるというシーン、銃撃の迫力は今一つと感じるのだが、飛行機を背にして、ソーンヒルが走る、有名なシーンはやはり迫力があり、迫力には今一つだと思った銃撃シーンも、あのシーンで機関銃を乱射するのは、あの道路が一般の車やトラックも時には通行するということを考えるならば、あのくらいの銃撃が限度であったか、とうなずけたりもする。

 

やはり、ハラハラドキドキして面白くなってくるのは、後半、ソーンヒルが恋に落ちる謎の女性の正体が明らかにされてからの展開であり、ソーンヒルによる自身のイニシャル入りマッチの使い方であるとか、これも秀逸だと感じる、また、ラストのサウスダコタ州のラシュモア山国立記念公園の岩に刻まれた巨大な大統領の顔での、逃亡、対決シーンであり、こういったところは、さすがヒッチコック、と思わずにはいられないサスペンスであった。

 

が、しかし、映画全編を通して、この謎の女性や、彼女を支援している教授、と呼ばれる男性が一体全体何という組織に所属しているかは明かされない、FBIでもCIAでもいいのだが、ヒッチコックはそこのところははっきりさせない、そんなところが、なんとなく、リアリティに欠け、サスペンス感を若干そぐような気がしてならない。さらに、この映画は主人公ソーンヒルと謎の女性が恋に落ちないとどうにも展開していかないストーリであるのだが、その肝心ともいえる出会い、親しくなっていく過程、がどうも不自然、唐突感が否めず、その点において、映画に感情移入していくことを妨げる。

 

舞台はニューヨークからシカゴへ、シカゴからサウスダコタへ、と移動してゆく、タイトルにでてくる ”北北西“ という方角とは何の関係もない舞台の移動、 ”North by northwest” という方位は実際には存在しないという。ある説によると、このタイトルはシェイクスピア戯曲「ハムレット」の一節からきているのではないか、と言われているようだ、曰く ”私は北北西の風の時に限って理性を失ってしまう。( I am but mad north-moth-west …….)”と。確かに、主人公ソーンヒルは理性を失ったかのように、謎の女性に恋をして、理性を失ったかのように、彼女のために命を懸けて、危険の真っただ中に飛んでゆく、可能性としては、一番ありそうな説であるな、と筆者は感じる。

 

そんなこんなで、みどころは数ある、面白いサスペンス映画なのであるが、先に触れたいくつかの点は残念であり、ゆえに、悪くないけれど残念な映画としたい。この主人公、謎の女性と出会う前にも、酒を無理やり飲まされ、ベロンベロンに酔っぱらい、理性もなくして、今にも車ごと海に落とされて命を落とすところであった、やはりこの映画、サスペンス溢れるスパイ映画であると同時に、”理性をなくした“ 男が、恋する女性のため、危険に突き進み、恋を成熟させる、といった映画としてみるのも、ありかもしれないと思うのでした。

 

 

 

映画  引き裂かれたカーテン   ポール・ニューマン/  ジュリー・アンドリュース 主演   アルフレッド・ヒッチコック監督 : 悪くないけれど残念な映画

引き裂かれたカーテン [DVD]

 

東西冷戦が終結して久しい。現在のドイツが東と西に分かれていて、その境界にベルリンの壁という鉄壁の壁が存在し、同じドイツ人でありながら、東ドイツから西ドイツへの自由ないききはままならず、仮に、このベルリンの壁を越えようとしようものなら、容赦なく射殺される運命にあり、ドイツ人の中には、家族ですらも東と西に離れ離れにされてしまった人々もいた、という時代のことを、今一度思い出してもらいたい。アルフレッド・ヒッチコック監督による、この映画「引き裂かれたカーテン」は、そんなドイツが東と西に分断れていた時代に、東側に潜入して、或る情報を手に入れんとする、西側スパイの物語である。

 

この映画の ”引き裂かれたカーテン“ というタイトルだけを聞くと、ある人はカーテンが引き裂かれて何か事件が起こる、というミステリーを想像するそうだ、それで言うと、筆者などは、ヒッチコック監督の名作スリラー「サイコ」の、ヒロインがシャワーを浴びていて、襲われるシーンなどがすぐ頭に浮かぶ、バスルームのシャワー用カーテンは引き裂かれ、殺人事件は起こる‥‥。この映画「引き裂かれたかーテン (Torn Curtain)」というタイトルは、ヒッチコック監督が自身の映画のワンシーンを洒落て、ギャグにしたのか‥‥、と想像したりしてしまうのである。まあ、この映画では ”鉄のカーテン“ 、東西ドイツを分断しているベルリンの壁を暗に意味していると、とらえるのが、もちろん、自然であるのだが。

 

映画「引き裂かれたカーテン」では、主演、ポール・ニューマン東ドイツに潜入するスパイの物理学者、そして、彼の婚約者に、ミュージカルの大スター、ジュリー・アンドリュースが扮する。だが、ジュリー・アンドリュースはこの映画では、ただの一曲も歌を歌わない。この映画「引き裂かれたカーテン」が撮影される前年には、あの有名な大ヒット映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、素晴らしい歌声、歌唱力を存分に披露しているのに、である。ヒッチコックはあえて、ジュリー・アンドリュースの素晴らしい声を封印して、彼女に演技のみをさせたのか、そこのところは監督のみぞ知るところ。

 

ただ、ポール・ニューマン演じるアームストロング博士がジュリー・アンドリュース演じる、彼の婚約者サラに、彼が東ドイツへやってきた、真の目的を告白して、サラをなだめるシーンがある。この時、二人は、小高い丘の上に二人で登っていき、丘の上の二人の姿を遠くからドイツの保安省長官が眺めている、という構図である。そして、筆者はこのシーンにおいて、映画「サウンド・オブ・ミュージック」のオーストリアの山でジュリー・アンドリュース演じるマリアが、思い切り、美しい歌声を披露しているシーンを思い出して、ひょっとしたら、ジュリー・アンドリュース、思わず歌いだしてしまうのではないか、と思ってしまった。

 

 

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さらに、二人で見つめあうアームストロング博士とサラは映画「サウンド・オブ・ミュージック」において、二人で見つめあうトラップ大佐とマリアを彷彿とさせ、こちらも、やはり、二人がデュエット始めてしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。このあたりのシーンは、ヒッチコックが映画「サウンド・オブ・ミュージック」をパロディした、ギャグではないかと、思ってしまった。そして、さらに、アームストロング博士とともに、ドイツ兵士たちに追われながら、ドイツ脱出を図るサラは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」において、ドイツの兵士らに追われ、アルプスを越えてオーストリアからスイスへ脱出しようというマリアとトラップ一家を連想させる。ヒッチコック、最初から、映画「サウンド・オブ・ミュージック」をパロディしようと思って、ジュリー・アンドリュースを抜擢したのか、と、うがった見方すらしたくなるのである。

 

割とシリアスなサスペンス映画であると思っていたのに、ジュリー・アンドリュースから歌を奪い、なおかつ、実は、そんなパロディ満載の映画だったのか、と改めて、ヒッチコック監督の遊び心を感じることのできる映画である。一方で、偽造路線バスでの逃避行、劇場での危機一髪での脱出、貨物船からの脱出、と、見せ場は数々用意されていて、なかなか、悪くないドキドキ感も味合わせてくれるのであるが、どうも、今一つ、手に汗握って、ドキドキするパンチに欠けるというか、スパイスが足りない‥‥ということで、この映画、悪くないけれど残念な映画としたい。ヒッチコック監督の遊び心、筆者は以上のように感じましたが、そんなところも、悪くはないな、と感じるところではありました。

 

映画  ビューティフル・マインド   ラッセル・クロウ  主演/     ロン・ハワード  監督

ビューティフル・マインド (字幕版)

 

今回は今一度ラッセル・クロウが主役の映画、前回の古代ローマの剣闘士を演じたラッセル・クロウとは180度異なる役柄、同じ人とは思えない、が、役者だからあたりまえ、ともいえる、とにかくラッセル・クロウがうまい、精神疾患のために幻覚に悩まされる、悩まされながらも、ついにはノーベル経済学賞を受賞する、数学の天才、ナッシュ教授、今回それが、ラッセル・クロウの役どころである。

 

数学の天才ではあるが、そのあまりにも奇人変人な行動や言動を、映画の初めのころに見せられると、ナッシュ君、これでは友人もできなかろう、孤独の大学生活になるのでは、と観ているほうは思ってしまうのであるが、ナッシュ君の天才ぶりのおかげか、やはり一目は置いたのであろう、ストーリが展開するうちに、最初はなんだ、とおそらく思っていたに違いない連中とも、いつのまにか仲良くなっている、生涯の友にもなったようで、或る意味、よかったねナッシュ君、などと思って安心したりする。さらに、ナッシュ君には彼女もできる、結婚して子供ももうける、幸福に家庭生活を送っている様子が描かれ、ナッシュ君よかったね、とここでも観ているほうは、何故かホッとしたりする。

 

が、彼の抱えている精神的疾患は、彼に幸せな生活を続けさせてくれない、やがて、それが原因となって、ナッシュ君は苦しむ、奥さんも苦しむ、そんなナッシュ一家の描写は、少しばかり背筋がぞっとするように、怖いのである。このあたりの、ラッセル・クロウの演技、奥さん役のジェニファー・コネリーの演技は迫真であり、観ているほうは画面に引き込まれる、監督ロン・ハワードの腕も冴えに冴える。

 

映画の中で、ナッシュ君の幻覚の描写はかなりすさまじく、その幻覚は一人息子の命さえ危険にさらすまでになる、奥さんのメンタルも限界まで来ていたのではないかと想像するに難くない、が、ナッシュ君の妻は彼を見捨てることはなく、幾度か危機もあったろうと想像できるが、最後まで、ナッシュ君を支える、彼の友人もまた、先にも書いたとおり、彼の状況を承知のうえで、ナッシュ君を温かく迎え、彼の力となる、このような心は “beautiful heart” といえるのではなかろうか。

 

一方、ナッシュ君は自身の困難と闘い、挫折を繰り返しながらも、その数学的才能は衰えることを知らず、紆余曲折しながらも、最後はやはり、学問の府、大学へと舞い戻る、苦境を克服しつつ、そこで教鞭をとりながら、やがてノーベル経済学賞受賞となるのである。おそらく、幻覚を見るという症状と闘う苦しい過程において、時には、絶望の淵の追いやられる時もあったと思われるナッシュ君を支えたのは、奥さんや友人の支えももちろんあったのであるが、彼の数学、又は、学問への、深い愛情、かつ、彼自身の素晴らしい “intelligence” 、つまり、”beautiful mind” にほかならないと感ずる。

 

この映画は実在の数学者、ジョン・ナッシュをベースにしたストーリであり、どうやら、映画のストーリー自体と実際のところに違いがあって、いろいろと指摘や批判を受けているようである。が、筆者は思う、彼の数学的才能、彼の天才、彼の数学や学問への愛情こそが、彼の抱える苦境や彼のおかれている状況を越えて、“beautiful mind” として、彼の中で不変の輝きとなる。監督、ロン・ハワードはこの天才的数学者、ジョン・ナッシュのこの輝きが、最大限に輝く様を観ているものに感じてほしかったのではないか。

 

映画「グラディエーター」とは、180度異なる、天才数学者を演じるラッセウ・クロウを観るのもよし、統合失調症という精神疾患についての啓発を受けるもよし、ナッシュ夫妻の苦難と戦う姿に感動するもよし、で、様々な角度から観ることのできる映画である。

 

天才数学者としてのラッセル・クロウの迫真の演技を観てみるのもいいかもしれないね。

 

 

 

 

映画 グラディエーター    ラッセル・クロウ 主演/    リドリー・スコット 監督

グラディエーター (字幕版)

 

ローマを訪れると、その巨大な円形競技場、コロッセウムを目にすることができる、フォロ・ロマーノと並んで古代ローマの遺跡として有名な観光地である、この円形競技場の観客席にたたずみ、競技場を見下ろしながら、古代ローマにおいて、この円形競技場がどのように使われていたのか、と思いを馳せる。無数にある観客席はローマ市民で埋め尽くされ、そのローマ市民は競技場で行われている競技に熱狂している、それは、あたかも、現代の、例えば、東京ドームで、客席を埋め尽くす野球ファンが、見下ろす野球場で行われている、巨人vs.阪神戦に声を張り上げて熱狂するがごとき光景と似ている。ただ、現代の東京ドームと異なるのは、そこで行われていた競技が、野球の競技などではなく、人間vs.人間がお互いに剣と剣を交えながら、死闘を繰り広げる、生きるか死ぬかの、血なまぐさい戦いだったのである。

 

「エイリアン」「ブレードランナー」といったSFの名作を手掛け、日本の名優、松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」を撮影した、リドリー・スコット監督は、このローマの血なまぐさい、又、現代に生きる私達から見たらあまりにも残虐な古代ローマの ”競技“ 、”見世物“ を映画「グラディエーター」で、見事に映像に再現した。この血を血で洗う競技を行う剣闘士のことを ”グラディエーター“ と呼ぶのである。

 

主人公は、ローマ軍の将軍から、奴隷に身を落とした、ラッセル・クロウ演じる、マクシムスという男であり、ローマ皇帝から、自分の跡を継いでほしいと乞われたばかりに、奥さんも子供も虐殺され、自身はローマ軍を追われ、奴隷となる。映画では、競技場でのグラディエーターたちの戦いぶりばかりではなく、多くはないが、彼らの生活、剣闘士養成所、剣闘のルールみたいなことも描かれている。そして、映画を観ているほうは、この競技の残虐さに息をのむ。

 

日本において戦国時代が映画やTVドラマの時代劇舞台として人気があるのと同様に、西洋では古代ローマという時代は映像的題材として、もしかしたら人気があるのかもしれない。映画「ベン・ハー」では、やはり円形競技場でチャールトン・ヘストン演じる奴隷ベン・ハーが、こちらは、迫力ある戦車競走を見せてくれる、同じくカーク・ダグラスが剣闘士としての反乱奴隷、スパルタカスを映画「スパルタカス」で演じてみせる、また、映画「クレオパトラ」ではエリザベス・テーラー演じるところのクレオパトラが、シーザー、アントニーとともに、ローマ帝国を舞台に一大歴史ドラマを演じる、かくも、古代ローマ時代という舞台は、ハリウッドの映画人に人気のある時代、と言えるのではないか。

 

スペインには ”闘牛“ という娯楽が今なお残っている。筆者はいまだ闘牛を実際に見たことはないのであるが、コロッセウムに似たような円形闘牛場で、人間vs.人間ではないが、人間vs.牛で牛が血を流して息絶えるまで追い詰めていき、観客がその ”見世物“ に大歓声を上げて熱狂するという姿が、映画「グラディエーター」で描かれた人間同士がお互いに相手が息絶えるまで追い詰めあうという ”見世物“ に観客が我を忘れて夢中で歓声を送り続ける、という姿と重なってしまうのである。どうやら、闘牛が初めて ”見世物“ として公の場にでてきたのは中世らしく、果たして、古代ローマの剣闘とその中世に世に現れたといわれる闘牛とが、何かつながりがあるのかどうか、残念ながら筆者にはわからない。

 

映画「グラディエーター」を見て、剣闘士たちの競技のシーンは当然のごとく残虐であった、が、一方で、より残虐さ、残酷さを感じたのは、先ほどから書いているが、その競技を見ている観客たちの姿であった、古代ローマの市民は、大人から子供まで、そう、子供までである、剣闘士たちが ”殺戮“ しあうのを、現代、私たちが野球の巨人・阪神戦に夢中になって熱狂するのと同じように、娯楽として熱狂し観戦していた。

 

そんなところを見事に描ききった、リドリー・スコット監督、この映画は、アカデミー賞英国アカデミー賞ゴールデングローブ賞でそれぞれ作品賞を受賞し、それらも含めて36もの賞を受賞している。まだ、未見の方、一度見てみる価値はあると思うよ。

 

 

 

 

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映画   本能寺ホテル : 悪くないけれど残念な映画

 

本能寺ホテル DVDスタンダード・エディション

 

現代人が過去にタイムスリップする物語ときいてすぐに思い出すのは、大ヒットしたハリウッド映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、大好きな映画で、とても面白い!と思う映画である、主人公のマーティー少年が、若き日の自分の両親と出会い、物語は展開する。タイムスリップする話となると、まず、どこの時代にタイムスリップするか、というのが一つのポイントであり、それで言うと映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はユニークな着想で成功した、ロバート・ゼメキス監督快心の作品と言えるのではないかと思う。

 

それでは、アメリカではなくて日本ではどうかというと、タイムスリップ・ストーリーと言ってすぐに頭に浮かぶのは、映画ではないが、筆者も以前取り上げたことのあるTVドラマ「信長のシェフ」、現代のシェフが戦国時代にタイムスリップして織田信長の料理人として、戦国の世を生き抜くというストーリーで面白かった。そして、今回取り上げたタイムスリップ映画「本能寺ホテル」も、織田信長明智光秀の謀反によって打ち果てた ”本能寺“ というタイトルからも想像できる通り、映画の主人公は戦国時代にタイムスリップして、そこで織田信長に出会うのである。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー (字幕版)

 

日本のタイムスリップ映画では、タイムスリップする時代に何故か戦国時代が多い、そして、タイムスリップした戦国時代で出会う人物というのも、織田信長が圧倒的に多いと感じる。タイトルだけ挙げてみても、先に述べたTVドラマ「信長のシェフ」、今回取り上げた「本能寺ホテル」、筆者は未見であるが映画「信長協奏曲」、「信長協奏曲」はもともとコミックであり、TVドラマにもなったようだ。筆者は以前、現代にタイムスリップしてきた信長と少年の掛け合い、そんな、コマーシャルも見たことがある、残念ながら、何のコマーシャルかは記憶にないが。

 

なぜ、織田信長はこんなに人気があるのか? 戦国時代にタイムワープしてしまった先で、徳川家康や、豊臣秀吉や、武田信玄とともに冒険する、なんていう話は聞かない。思うに、これらの武将であったら、未来からきた、などとわけのわからないことを言おうものなら、怪しい奴、と言われて、即刻その場で切り捨てられるのが落ちではないかと想像できる。一方で、織田信長はこの戦国の世という時代にあって、おそらく唯一、未来から来た、なんていう突拍子もないことを受け入れてくれそうな人でもある。宣教師に、地球儀を見せられ、地球は丸いという概念を一瞬のうちに理解した、という逸話も残っている、日本以外の外の世界にも目が向いている、新しいもの、珍しい物好きである、発想が超独特である、など...日本の武将の中では一番、自分が未来人なんて話を怒らずに聞いてくれそうな素地はある。

 

 

信長のシェフ 1巻 (芳文社コミックス)

 

ちっとも映画の話にならないじゃないか、と思われるかもしれないが、映画のほうは確かに主人公は ”本能寺の変の前日“ に過去に戻り、織田信長と出会うのであるが、結局、この映画は、主人公の女の子の人生目標探しの旅であり、筆者が思うには、わざわざ戦国時代に来て、信長に会わなくてもよさそうな気がする。信長の描かれ方も浅く、せっかく信長を出すなら、もっと深く、深く、掘り下げて描いてほしかった、森蘭丸も登場するのだから、信長の登場シーンはもっと面白くできたのじゃないか、とも思った、つまり、”本能寺“ ホテル、というタイトルの割には信長と戦国時代の描かれ方が物足りないのである。

 

文句ばかり言っていると思われるかもしれないが、筆者は織田信長、大好きであり、”本能寺“ と来たからには、織田信長に期待してこの映画を観た、なので、悪くないところもあるのである、例えば、ホテルが、もう少し厳密にいうと、ホテルのエレベーターが現代と過去とをつなぐ入り口、タイムマシンの役割を果たすという着想は面白かった、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が初めて公開されたころ、タイムマシンが車、デロリアンであるという着想が新鮮で、話題にもなったと記憶する、それと同じ意味で、エレベーターもよかった。

 

といわけで、今回は、大好きな、織田信長映画、ということもあり取り上げてみた。悪くないところも、つまり、いいところもないって言うわけではないのだが、映画への期待が大きかっただけに、その反動の物足りなさは割合と大きく、今回は実に残念であった、と言わざるを得ないのでした。

 

 

 

映画  ヘイトフル・エイト    クエンティン・タランティーノ 監督

 

ヘイトフル・エイト(字幕版)

 

”ミニーの紳士服飾店“ というのは、実際の服飾店というよりも、きっと、今で言うなら、高速道路のサービスエリア、長距離運転してきた車が、途中一休みして、ドライバーや乗員が一服したり、食事したり、時には、車にガソリン入れたりする場所といえる。映画「ヘイトフル・エイト」の舞台は、南北戦争終結直後のアメリカであるので、車ではなく、駅馬車のサービスエリア、駅馬車の御者や乗客が一休みするところ、馬車を引く馬を一休みさせる場所、であると考えなくてはいけない、実際、映画での描写もそれに近い。

 

そして映画の舞台はこの ”ミニーの紳士服飾店“ であり、この服飾店内で起こる、様々な事件、陰謀、人間模様(?)、そして、殺戮が、この映画を通して描かれる。さすがクエンティン・タランティーノ監督の映画だけあって、殺し合いのシーンでは、迷いも、情けも、容赦もなく、次々と死んでゆき、死体の山。もともと、映画の冒頭から死体の山である、何しろ、主人公ともいえる、サミュエル・ジャクソン演じるマーキス・ウォーレンは賞金稼ぎである、また、駅馬車に同乗しているカート・ラッセル演じる、ジョン・ルースも賞金稼ぎで、こちらは死体を運びはしないが、捕まえたお尋ね者が縛り首にされるのを見届けることをモットーにしており、そんなお尋ね者、今回は女、を護送中である。そんな、賞金稼ぎ二人、捕らえられたお尋ね者の女、そして途中、偶然にも馬車に拾われることになる新任保安官と馬車の御者、この5人が ”ミニーの紳士服飾店“ に到着して、物語は展開し始めるのである。

 

今、5人と書いたのであるが、この映画のタイトルは「ヘイトフル・エイト」、つまり、「ヘイトフル・8」、「The Hateful 8」なのであり、実はこの映画では ”数字” がある意味を持っているのではないか、と筆者は考える。この映画が、クエンティン・タランティーノ監督、8作目の映画、ということもあるらしいが、「The Hateful 8」、日本語にしてみると、「憎むべき8人」、または、「悪意ある8人」「忌々しい8人」というタイトルになり、観ているほうは当然、この ”8人“ って、いったい誰なの? と、思ってしまうことは想像に難くなく、なので筆者は考えてみた、この ”ヘイトフル 8人“ を。

 

  ”ミニーの紳士服飾店“ に集った面々は、主人公と思える賞金稼ぎ二人と新任保安官も含めて、皆、一癖も二癖もありそうな人物ばかりである、この中の誰がタイトルにもある ”ヘイトフル 8人“ であるか、考えていくのは実はなかなか、骨の折れる仕事である。映画のポスターには8人の人物がいるのであるが、映画を観ると、素直にこの8人が ”ヘイトフル 8人“ である、と、決めつけることはできない展開になる。しかも、原題には ”The” が付いており、 ”The” が付くということは、”きっかり8人” でなくてはならぬ。 

  たとえば、この服飾店に集まった人々の中で、確実にこの8人から除外されると考えられるのは、物語の冒頭登場して、賞金稼ぎら4人を服飾店まで連れてきた駅馬車の御者、O.B.ジャクソンだけであり、この御者は毒入りのコーヒーを飲んで、あっけなく死んでしまう。映画では、この御者が先に述べた4人を服飾店に駅馬車で連れてきただけであり、特別、この ”8人“ に入るような、”憎むべきこと“ ”悪意あること“ ”忌々しいこと“ などに手を貸したり、手を染めている事実はない。

 

  それ以外の人物と言えば、新任保安官であると本人が言っていても、果たしてそれが真実かどうか疑わしかったり、口数の少ない、元南軍将軍のサンディ・ズミザース老人は大の黒人嫌いで、南北戦争中に多くの黒人を虐殺していたり‥‥と、この ”8人“ から除外できそうな人物も、実は…という展開になるのだ。受賞は逃したが、ゴールデングローブ賞では脚本賞にもノミネートされている映画である、この ”8人“ 探しで以外でも、もちろん、ストーリは面白い。先の読めない、タランティーノ監督の才気あふれる脚本で撮られた映画である。

 

  南北戦争終結直後の話、ということもあってこの映画では、人種差別問題も含めて、何がいいのか、どれが悪いのか、おそらく映画を見る人によって、その、判断は、もしかしたら、人それぞれ、微妙に判断も異なり、又、判断つきかねる、なんていうシーンもでてくるかもしれない。ということで、先ほどから言っているように ”この8人“ がどの8人であるかを判断するのは難しい。これからこの映画を観ようと思っている方は、そんなことなども、頭の片隅において、”8人探し” を試みるのもいいかもしれない。そうすると、この映画の楽しみ方も少々違ってきて、なお一層この映画を楽しめるのではないのだろうか、と思う。タランティーノ・ファンではなくても、一度見てみるのも悪くないかもしれないね。

 

  

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映画  Mr.ホームズ 名探偵最後の事件  ビル・コンドン  監督  :悪くないけれど残念な映画

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件(字幕版)

 

 

イギリスの作家、コナン・ドイルが産んだ、世界的人気のある、有名な名探偵シャーロック・ホームズは第一線から退いた後には、イギリス、サセックス州で養蜂をしながら隠居生活を送っていることになっている。サセックス州といっても、あまりなじみのない土地かもしれないが、イギリス、ロンドン、の南に位置して趣のある海辺の風景が魅力の土地のようだ、劇中でもホームズが養蜂を営んでいる農場のすぐそばには海岸が広がっている、という設定であり、家政婦の息子の少年と一緒に海に泳ぎに行くシーンなどもある。静かで素朴な土地のようで、ホームズのような有名人が引退して、静かに暮らすにはうってつけの土地、と言えるのかもしれない。

 

映画「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」は93歳のホームズが、このサセックスの農場で家政婦マンロー婦人とその息子ロジャーと3人で暮らす様子を描いている。名探偵も93歳である、一緒に数々の冒険を共にした盟友ワトソン博士も兄マイクロフトとハドソン夫人など、ホームズを取り巻くおなじみの人々はもういない、老齢のホームズただ一人が残された、という設定である。さらに、あの剃刀のように鋭い頭脳も、寄る年波には勝てずに、今は物忘れもひどくなり、相手の名前すら覚えられない、忘れてしまう、ということで、ワイシャツのカフスに、相手の名前を記して、そっと盗み見して、急場をしのぐ、なんてことも珍しくはないのである。

 

今回のこの最後の事件というのも、ホームズが引退するきっかけとなった30年前の事件の結末が、ワトソン博士が物語として書き上げたものと、自分自身が記憶している結末と違う、と気づいたために、実際はどうだったか、事件を思い出しで自分の手で事件の顛末を書き記すといことなのだ。が、すすむ認知症のために、事件の細部を思い出せない、それで悩む、イラつく、体も弱る…といいところなく、死期がまじかに迫っている様子、昔の面影も全く見ることができない、哀れな老ホームズが描かれることとなる。現役の時のホームズとのこの映画の老ホームズのギャップは案外すさまじく、ホームズのいちファンとしては、ここまで、老いて弱ってしまったホームズをこの監督は描くのか、と、監督の徹底さにある意味、あっぱれ、と言いたくなるのだが、ファンとしてはやっぱり見たくはないホームズの姿なのである。

 

一方、家政婦のマンロー婦人はこの偏屈なホームズ老人には閉口するばかりである、一日も早くもっと都会のいい条件の仕事を見つけたいと望んでおり、実際に職探しに余念がない、息子のロジャーはどうかというと、親に似ず賢い、トンビが鷹を生むという言葉があるが、まさにそのような設定で、ロジャー少年は往年のホームズの鋭さを老ホームズの中に見ており、次第に老ホームズと仲良くなっていく、母親に内緒で、年の離れた ”親友“ のような関係を築いてゆくのである、ホームズは少年ロジャーのことを ”私の宝“ というまでになる。この二人の交流は観ていて心地よい気持ちにさせられる、筆者は好きな、いいシーンなのである。

 

また、ホームズは自分の記憶力維持のために “山椒” にたよる、”山椒“ を手に入れるために、老齢にもかかわらずわざわざ日本へ出向く、当然映画では日本の町の描写、日本人の描写、日本の家庭の描写…等が、登場する、まあ、格別不自然とまではいかないが、何故かこの監督は ”山椒“ を手に入れることができるのは広島であるとして、原爆で焼け野原になった土地を公園、と称し、その焼け野原で ”山椒“ をみつける。ここら辺の展開は全くよくわからなかった、何故 ”山椒“ なのか、何故、広島と原爆がでてくるのか、日本人とホームズが絡むエピソードを挿入したわけは謎だ。まあ、ただ一つ思い当たるとしたら、ホームズは ”バリツ“ という東洋の格闘技の技を体得しており、この ”バリツ“ で宿敵モリアーティ教授をやっつけるのであるため、東洋の技 ”バリツ“ と日本という結びつきができたのではないか、と推測する、が、この日本との絡みのエピソード、あまり出来もよくないと感じるし、なくてもよかった、と筆者は思う。

 

映画「Mr.ホームズ 名探偵最後の事件」は、サセックスの美しい映像、年老いて昔の面影全くなしというホームズを描くという着想、ロジャー少年との心安らぐ交流‥‥と、悪くない場面もたくさんあるのだが ”名探偵最後の事件“ というわりには、この最後の事件が観ている筆者には、少々物足りなかった、まあ、映画全体を包む、のどかで静かな優しい雰囲気にはぴったりと合っているのではあるが。そして、今も書いたように、ないほうがよかった、と思われる日本と日本人との絡みなどもあり、筆者はホームズのファンではあるのだが、この映画、悪くないけれど残念な映画、としたい。

 

 

 

映画  シン・ゴジラ     廣野英明・樋口真嗣   監督

シン・ゴジラ

 

 

 

ゴジラは知っていたが、 ”ゴジラ映画“ を見るのは初めてである、映画「シン・ゴジラ」では、ゴジラのことを ”怪獣“ と呼ばないが、その怪獣が出てくるTVドラマや、映画というと、どうしてもウルトラマンシリーズを思い浮かべてしまう筆者である。映画「シン・ゴジラ」は大ヒットし、数々の賞を受賞した映画であり、公開当時、ちょっと気になっていた映画であったのだが、観るタイミングを逸し、今回初めて観ることとなった。では、観てみて、どうだったか‥‥? どうだったかというと‥‥面白かったです、十分映画を楽しんだ筆者でした。

 

が、映画「シン・ゴジラ」で、ゴジラゴジラらしくなったのは、ゴジラ東京湾の海に消えて、再び鎌倉の稲村ケ崎に上陸してからであり、それまでのゴジラは、全く ”ゴジラ“ らしくなく、二足歩行もできずに蛇のように体をくねらせて移動していた、この時アップになったゴジラの顔を見て、あまりの漫画チックなゴジラの顔に、筆者は動揺し、まさか、全編、このゴジラで通すつもりなのか、と思い、このまま映画を観続けるべきなのかどうか、と迷った。稲村ケ崎に再上陸してからのゴジラはまさに無敵、アメリカ軍の戦闘機もことごとく撃墜して、防衛側は打つ手なし、やっと本来のゴジラになって、面白くなってくる。

 

本来のゴジラになってからのゴジラの破壊力はすさまじく、日本の自衛隊にはゴジラを止められず、どう収拾をつけるつもりか、と考えるに、もうこうなったら核兵器を使う、という流れ、もしくは、ウルトラマンでも登場させないとゴジラを倒すのは無理だろう、と思っていると、多国籍軍が編成されて乗り出してくる、そして、案の定、核兵器ゴジラを ”駆除“ する、と展開し始める。とはいえ、ゴジラを倒すためとはいえ、東京に核爆弾を落とすという展開はスゴイ、と思った、戦争と違うので住民を避難させる、という展開になるのだが。

 

もちろん、日本側はそんな展開は何としてでも避けたい、というわけで、日本人の英知が結集され、核爆弾投下のタイムリミットまでに、日本が核爆弾に代わるゴジラ撃退法を見つけ、ゴジラ ”駆除“ に成功するかどうか、というところが映画の見どころとなり、このあたりの展開は、スリルがあり、ハラハラドキドキ、うまい、中でも、 ”無人在来線爆弾“ とかいって、山手線らしき車両がゴジラ向かって突っ込んでいくシーンはおもしろい、また、何台ものタンクローリーゴジラの体内に血液冷却液を流し込んでいくシーンもいい。原子爆弾やハイテク装備のアメリカ軍の攻撃に比べて、アナログ的低予算仕様の攻撃がいい、しかも、そんな日本の攻撃が金のかかったアメリカ軍の攻撃よりも、ゴジラの急所を突く、ここら辺もやはり、ハラハラドキドキ、面白い。

 

映画「シン・ゴジラ」で上記のような英知にたけた作戦を展開するのは、総理大臣以下、お年を召した政府の高官たちが行方不明になった後の、臨時総理大臣以下の、どちらかというと若い閣僚たちなのである、映画冒頭では、慣例、規則に固まった高官たちが、右往左往しながらおろおろするゴジラ対策、一向にピンとこない姿を見せられる。ゴジラ対策全くできない姿が、現実のコロナ対策一向にピンとこない政府とイメージがオバーラップしてくるのである。そんな中で、使命感、責任感に燃える長谷川博己演じる内閣官房副長官矢口蘭堂はカッコいい、この矢口内閣官房副長官をはじめとして、若い政治家、官僚たちは現状打破のために、必死に知恵を絞る、ここら辺のポジティブさもいい、もっとも、必死に知恵を絞らないと、核爆弾を東京に落とされてしまうからね。

 

このように、映画は、世界の多国籍軍アメリカ軍vs日本軍、また、古参の政治家や官僚vs.若い閣僚や官僚 という形をとりながらゴジラに立ち向かってゆく、ゴジラvs.人間だけの戦いでないところも面白い。映画のラストに、矢口蘭堂は日本人は “スクラップ & ビルドの国民だから” というようなことを言う。たしかに、戦争でスクラップされたが、戦後見事にビルドした、劇中でもゴジラにスクラップされた首都圏をしっかりビルドするのであろう、ならば、現実の世においても、コロナ禍でスクラップされてしまった日本を、コロナが終息した後には、しっかりビルドできるだろうか‥‥きっと、できると信じたい。

 

 

 

 

 

映画  キリング・フィールド     ローランド・ジョフィ 監督

 

 

キリング・フィールド HDニューマスター版 [DVD]

 

 

アメリカ人でありNYタイムズの記者、シドニー・シャンバークとカンボジア人の記者、ディス・プランはカンボジアの内戦を取材している、次第にポル・ポト率いるクメール・ルージュの勢いが強くなり、アメリカ軍は撤退し、カンボジアクメール・ルージュの支配する地となる、この映画はそんなポル・ポト政権下のカンボジアの様子を見るものに伝える、又、アメリカに帰国することなく、また、アメリカへ逃げることなく、ポル・ポト政権下のカンボジアにとどまり、内戦の取材を続けてゆく、特派員シドニーと現地新聞記者プランの二人の物語でもある。

 

この映画を観始めてすぐに思い出したのは、以前紹介したことのある韓国映画「タクシー運転手」であった、映画「タクシー運転手  約束は海を越えて」も、一部の地域であったが韓国の内戦を描き、外国からの特派員とその取材に協力することになった現地のタクシー運転手の話であった、かたやタクシー運転手とかたや新聞記者、職業は違えど、似たようなシチュエイションであり、自国の内戦を世界に知らせようという行動に変わりはない、そして、さらに、映画を離れて現在進行形で起こっているミャンマーでの内戦というか、ミャンマーでの出来事、さらに、さらには、香港で起こっている民衆と国家の戦いに思いを馳せるのであった。また、劇中でクメール・ルージュの幹部が言った ”間違った芽“ というか ”異なる思想は徹底的につぶす“ といった意味のセリフが、ミャンマーの軍事政権の幹部がテレビの会見で言った、正確には記憶していないが、”腐った野菜は全部処分する“ とか、そんな意味のことを言ったことが思い出され、ゾッと悪寒が走った、このセリフも思想の異なる人々を排除していくということである。

 

英語には “depopulate” という単語があり、“~の住民を減らす/ 絶やす” という意味であり、この単語を初めて目にしたのは、ヒットラーのセリフの中で、ポーランドの国民の数を減らす、という趣旨のセリフの中で使われたのを見た時であった。この時は、一個人としての人間が、この言葉を使ったことのインパクトに圧倒され、しばしそこにたたずんでしまい、ヒットラーの所業に、やはり、ゾッとした。ポル・ポト政権下、クメール・ルージュの虐殺により、カンボジアの人口の3分の1もの命が奪われたという、凄まじい大虐殺。世界というか、人間の性は全く変わっていない。

 

映画では、シドニーとその仲間である西洋人の特派員は無事にカンボジアから脱出できるが、カンボジア人のプランだけは、仲間の必死の努力にもかかわらず、カンボジア脱出はかなわず、クメール・ルージュの農場で強制労働させられることになる、その強制労働させられている最中においても、些細なことで命を奪われる虐殺の様子が描写される、プランは果たしてこの地獄を生き延びられるのか、果たして、シドニーとの再会は果たされるのか‥‥、もちろん、そこのところは映画を観てほしい。

 

この映画では、カンボジアポル・ポト政権下の残虐さを見ることができる、もっとも、この映画の映像ですらまだ十分ではない、伝えきれていない、というジャーナリストもいるようだ、が、少なくとも、当時のカンボジアの悲惨さを垣間見ることはできるフィクションである。さらに、カンボジア人ディス・プランを演じた、ハン・S・ニョールは、本業は医師であり、実際に、クメール・ルージュの元で強制労働に就かされた経験を持つという、映画後半の主役は彼であり、そんな映画後半は、やはり、見応えがある。また、クメール・ルージュに記者たちが拘束されてしまうエピソード、フランス大使館でのエピソード‥‥と、思わず息をのむ見せ場もある。

 

この映画は、後にピューリッツァー賞を受賞した、実在のシドニー・シャンバーグ特派員の体験に基づく実話を映画化したものである、実話をもとにしているといってもドキュメンタリーではない、あくまでフィクションである、そこのところを勘違いしてこの映画を観てはいけないと感じる。