Kororon 映画について語るBlog

映画を語りつくす blog ☆ いい映画も、残念な映画も、好きな映画に、無理(?) な映画も、時に、ドラマも

映画  ジョー・ブラックをよろしく    ブラッド・ピット/  アンソニー・ホプキンス  主演 :        悪くないけれど残念な映画

 

 

ジョー・ブラックをよろしく (字幕版)

 

 

少々ブラックな、大人のファンタジーである、何しろ死神と人間の女性が恋に落ちるというストーリーであり、死神は人間の姿を借りていて、一見したところは人間で、中身が死神であるとはわからない、死神と言っても外側はブラッド・ピットである、甘いマスクに金髪、死神だからと言って、大鉈を振り上げるでもなく、怖さは全くない、逆に、人間界に慣れないたどたどしさが、可愛くもあり、おそらく、そんなところがこの映画を観る筆者を含めたブラッド・ピットファンを喜ばすことになっているのだろう、と思う。

 

死神と人間の恋の物語、そんなファンタジーは勘弁、という方には、劇中のもう一つのあらすじ、アンソニー・ホプキンス演じるところの死神と恋に落ちる娘の父親、資産家であり、かつ、ある会社の社長でもある男の物語もある。。その社長と彼の片腕との会社乗っ取り騒動というストーリーも用意されている。さらに、死神との恋愛物語だけではなく、資産家の社長と娘婿も含めた、彼と娘たち、家族の絆、というか、愛情というか、家族愛を軸にしたストーリーも用意されている、この映画「ジョー・ブラックをよろしく」は、結構、盛りだくさんな映画なのである。

 

盛りだくさんにしたためか、この映画は長い、オリジナル版は3時間近くもあり、”だらだらと長い“ 映画だ、と言われたりしている、確かに長いと感じる、それぞれのストーリーに変な間があるのである、例えば、死神と娘の恋愛ストーリーでは、この死神が徐々に良心、というか、罪悪感のようなものに目覚めていくと同時に、人間の ”愛“ を理解していく段階が描かれるのだが、それが、少々くどい、病院で死神と黒人の患者とが対話する場面などあるが、なくてもいいんじゃないか、と思ったりする、また、恋人同士の最後の別れのシーンも、なにか、不必要な間があり長く感じる。このヘンな ”間“ が、父親と娘たちの関係を描くシーン、部下による会社乗っ取りのシーンについても感じることができる。

 

また、アンソニー・ホプキンス演じる父親、ビル・パリッシュ氏は善人であり、善人過ぎて、何か物足りない、英語には “The good die young (善人は早く死ぬ)” という言葉がある。死神、ジョー・ブラックは人間の世界を学ぶために人間界に現れたのであるが、死神が人間界の案内人としてパリッシュ氏を指名したのも、彼が善人であるというのも理由の一つからかもしれない、もっとも、パリッシュ氏は “young” ではないけれど。パリッシュ氏はもう少し抵抗してもよかったのでないか、死期を回避してくれとか、寿命を延ばしてくれとか、自分の会社を作り上げた剛腕な社長である、死神とも自分の死期について、もっと、丁々発止(?)の交渉をして、交渉に勝ってほしかったと思う、せっかく社長に返り咲いたにもかかわらず、あっさりと死神と一緒にあの世に行ってしまうのはいかがなものか、と思ったりする。

 

結末は、半分ハッピーエンドであった、映画「ジョ・ーブラックをよろしく」は、何しろファンタジーであるのだ、ファンタジーの結末が、暗い悲劇で終わっていいはずはない、しかも、死神はステキに甘いマスクの紳士ではないか、”死“ の非業さよりも、どうしても優しさが伝わってくる。

 

このように、この映画にはいろいろと物申したくなるところが多い、が、ブラッド・ピットのファンである筆者は割と気に入っている、冒頭のカフェの客のシーンも含めて、家族のディナーで長女が誕生パーティーのケーキの試作品を披露したシーンであるとか、会社乗っ取りを画策する部下との対決シーンであるとか‥‥いくつかお気に入りのシーンもある。悪くない映画で、筆者は楽しめたのであるが、書いてきたように、残念なところも多々ある映画だ。死神と人間のロマンスだけではないのだが、サブストーリーがちょっと物足りないのが残念、でも、興味のわいた方は是非どうぞ!

映画   許されざる者   クリント・イーストウッド 主演/     クリント・イーストウッド 監督

許されざる者(1992)(字幕版)

 

この映画を初めて見た時、正直言って面白さを感じなかった、よくわからなかったし、賞金稼ぎの話ではあるのだが、かつてはかなりの無法者だったという設定の、今では、寄る年波に勝てない、どちらかというとよぼよぼした、おじいさんガンマン二人が、若く経験も浅い、無鉄砲ガンマンと3人で、お尋ね者に立ち向かう、お尋ね者と言っても、売春宿の女たちが自分たちのたくわえを絞り出して、首にかけた懸賞金、どうもいまいち、パッとしない設定、ジーン・ハックマン演じる保安官とその取り巻きの悪役ぶりばかりが目立って、タイトルの「許されざる者」というのは、この悪党たちのことだな、と思っていたのだが、どうもこれもピンとこなかった。

 

アメリカでは、絶賛されて、アカデミー賞の作品賞、監督賞、編集賞、そして、ジーン・ハックマン助演男優賞まで受賞した映画である、確かに、ジーン・ハックマンのあの悪党保安官ぶり、うまかった。そんな映画である、改めて見直してみて、以前よりはわかった気がしたが、どうも、やはり、まだピンとこない、どこがピンとこないのか、筆者は考えてみて、筆者なりに以下に述べるような映画であったか、映画「許されざる者」は、と理解した。

 

まず、この映画をわかりにくくした原因の一つは、タイトルの ”許されざる者“ というのをジーン・ハックマンとその一味、と理解したところから間違えていた。”許されざる者“ がいるのであれば、当然その対称にある ”許された者” がいるはずで、その ”許されたもの“ というのはこの映画においては、クリント・イーストウッド演じるウィリアム・”ビル“・ マニーという昔の荒くれものただ一人であり、マニー以外の映画の登場人物は皆、”許されざる者“ であった、と理解すべきである。

 

いったいこのマニーと他の登場人物とはどこが違うのであるか、マニーだって、現在は足を洗っているとはいえ、若いときは,めちゃくちゃに人を殺していた、とんでもない、無法者だったではないか、と大抵考える、当然、マニーだって ”許されざる者“ に分類されるだろうと。が、映画を観ているとわかってくるのだが、昔はとんでもない無法者だったこのマニーは、何故か ”誠実“ なのである、天然痘で亡くなってしまったが、奥さんが生きている間はもちろん、亡くなってしまった後ですら、その ”誠実“ さはかわらない。

 

売春宿の女に誘われるのだが、マニーはその誘惑をしっかりはねのける、亡くなってもなお奥さんのことを思って、かたや、マニーの相棒であるモーガン・フリーマン演じるネッド・ローガンは妻帯者でありながら、若いガンマンと一緒になって、売春宿の女と遊ぶ、その報いは早々にやってきて、保安官とその一味同様の ”許されざる者“ の運命をたどる。そのように見ていくと、若い無鉄砲ガンマンも、人一人殺した後には、ことの重みに怖気づいて、もう2度と人は殺さない、という、売春宿の女たちも、復讐は遂げたとはいえ、今まで稼いだ有り金全部持っていかれる、いいことはない。一方、亡くなってもなお奥さんに ”誠実“ であったマニーは、その未来までも明るく、成功の人生を送る。

 

でも、マニーだって昔は、無法者の人殺しだったではないか、と当然疑問を抱く方もいる。そこで、この映画では、聖書のあるエピソードを思い出さなければならない。それは、新約聖書、マタイの福音書第20章1節から16節にわたる部分で、”ブドウ園の労働者のたとえ“ と言われている。聖書のこのエピソードは ”So the last will be first, and the first last.  For many are called, but few are chosen.“ (このように、最後にいるものが先になり、先にいるものが後になる。というのも、大勢の者が招かれるが、選ばれるものはほとんどいないから。)という、言葉で終わる。

 

どんなエピソードであるかは、聖書のこの部分を読んでほしい、と言いたいところであるのだが、聖書のこの部分を仮に読んだり、思い出したとしても、キリスト教徒ではない筆者にとっては、すぐに何を言っているかとか、どんな意味であるか、とか理解できるようなエピソードではないと思うし、実際そうであった。おそらく西洋の人々であるとか、キリスト教徒であるならば、映画「許されざる者」をみて、聖書のこのエピソードが即座に思い出されて、ピンとくるのかもしれない。実は、そのヒントは11年前に奥さんと出会ったというセリフにも隠されているし、他にもまだ、この聖書のエピソードを思い出させるヒントは映画の中にちりばめられているのであるが、それはまた、別の話。

 

さて、西洋の人々は、ピンときて、イーストウッド監督が、聖書のエピソードを見事西部を舞台にして映画化したことに称賛を送ったのではなかろうか、それが、映画「許されざる者」のアカデミー賞獲得へとつながったのか、と考える。イーストウッド演じるマニーは、ブドウ園に最後に来て一番働かないで、よく働いた他の人間と同じ賃金をもらった者、滅多に選ばれる者はいのに、ただ一人、神に許され寵愛を受けるに足る人間、と選ばれた者なのである。

 

映画に話を戻そう。劇中、マニー、ネッド、キッドが保安官らがいる街へ向かう途中の平原の描写は美しい、また、彼らと保安官一味の銃撃戦も迫力があるなど、見せ場はある、派手なアクションで包まれた西部劇ではなく、残虐な描写も無きにしも非ずだが、全体として静かなトーンに包まれた西部劇である。それも、きっと、聖書をベースにした物語であるから、と筆者は考える。

 

劇中では、何故、マニーの奥さんになる女性が、残忍、無慈悲の荒くれものだったマニーに惹かれて、彼と結婚したのかは語られなく最後まで謎である、また、なぜ、奥さんが、そんなマニーに足を洗わせることができたのかも語られることはない、が、筆者は不思議であった。

 

おそらく、この女性は天使であった、と筆者は勝手に想像する。神様は、この残忍な無法者の中に愛する者への ”誠実さ“ をみた、なので、彼の元に天使を使わし、彼に手を差し伸べ、彼を選んだ、映画からも想像できる通り、あの西部の時代にあって、”誠実さ“ をもっていて、その ”誠実さ“ に従って生きることのできる人間は少なかったに違いない、が、マニーにはそれができた。

 

この映画の面白さを理解するには、やはりこの聖書のエピソードは大切なポイントであると筆者は考える、それを知ったうえで映画「許されざる者」を見ると、最初に書いたこととは全く違った映画の顔を発見でき、この映画の面白さを味わうことができるのでは、と感じる、案外、重い映画なのだ、クリント・イーストウッド監督、やはり、さすが、と思うのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

映画  スミス都へ行く    ジェームス・スチュワート  主演  

 

スミス都へ行く [DVD]

 

 

 

スミス氏はアメリカの片田舎のボーイスカウトのリーダーで、子供たちから絶大な人気を得ていた、竹を割ったようなまっすぐな人間で、バカが付くほど正直、誠実、曲がったことは決して行わない、という、或る意味、聖人のような人物なのである。かたや、そんなスミス氏がひょんなことから入っていくことになる政界というのは、日本の政治、政治家を見ていてわかるように、こう言っては何だが、一癖二癖もある、老練、老獪な、ベテラン政治家たちがひしめき合っている世界で、まっすぐで正直なことばかりが行われているわけではなく、汚職、だましあい、嫌がらせ、などなど、スミス氏の心情とは相いれないことが、平然と行われてしまう世界である。

 

では、そんなスミス氏がなぜ政治家になる羽目になったかというと、政治には全くに素人であるスミス氏であるがゆえに、お飾りとしておいておけば、老練な政治家たち、自由勝手に不正も、汚職もできよう、スミス氏は適当に、あしらっておけばよい、という理由で、単純至極なのだが、割とひどく、スミス氏を馬鹿にしている理由で死亡した議員の後釜として選ばれた。が、さすがにスミス氏も全くのバカではなく、自分の立場と選ばれた理由をやがて知ることとなり、失意のうちに故郷に帰ろうとするところ、或るきっかけでその決意を翻す。

 

中国の言葉に “鶏口となるとも牛後となることなかれ” というのがあるが、スミス氏はまさに ”鶏口“ であり、小さな集団どころか、鶏口のくちばしの先で、スミス氏ただ一人だけが戦っているといった方が当たっているように思われる。巨大な政治の力は、スミス氏の繰り出す数々の戦略をことごとく踏みつぶして、とてもスミス氏に勝ち目はなさそうだ、と観ているものに思わせる。政治の圧力はこんなにも巨大であり、世論や一般の人々は、いともたやすく操作されるものであるか。

 

そんなスミス氏がとった戦術が “牛歩” 戦術、ならぬ、”牛舌(ぎゅうたん)“ 戦術。牛歩戦術は、最近は見ないが、以前日本の国会でも野党が時折用いていた戦術で、ピンとくるのではなかろうか、では、”牛タン“ 戦術、とはいかなるものか、それは例によって、映画を観て確かめてもらいたい。日本の国会で牛歩戦術を見せられた時には、何か滑稽で、ばかばかしさすら感じてしまったのだが、映画「スミス都へ行く」で、スミス氏による牛タン戦術には、何故かスミス氏を応援したくなってしまう、というこの気持ちの違いは、おそらく、劇中のスミス氏の心意気が、純粋でまっすぐであり、牛歩戦術をしていた日本の国会議員との心とあまりにもかけ離れていたせいではないか、と思ってしまう。

 

映画の原題は「Mr. Smith goes to Washington」であり、本来は ”スミス都へ行く“ ではなく ”スミス、ワシントンへいく“ であり、日本でならさしずめ ”スミス永田町へ行く“ となるところか。”ワシントン“ とすると、より、政治的、政治家的ニュアンスを感じられるタイトルであるのだが、”都“ としたところに、田舎での生活しか知らぬスミス氏が政治の大きさだけではなく、都会の大きさにも驚愕していく様が感じられる、うまいタイトルの付け方ではないか。

 

映画「スミス都へ行く」では、若き日のジェームス・スチュワートを見ることができるが、ジェームス・スチュワートという役者は、年を重ねていけばいくほど、渋くて味のあるよい顔になっていく役者ではないだろうか、そういった役者はほかにもいると思うのだが、ジェームス・スチュワートの場合、映画「スミス都へ行く」から、10年以上後に作られた、ヒッチコックの映画「裏窓」や「めまい」で見る彼のほうが、数倍もいい役者に見える、もちろん、この映画でも純粋な青年政治家を見事に演じているのだが。

 

果たして、この孤軍奮闘する若き、誠実、まっすぐ、正義感溢れるスミス議員は巨大政治組織との戦いに、勝利することができるのであろうか、それとも、無惨、つぶされてしまうのだろうか。それは映画をみてほしいのだが、スミス議員が勝利するとしたら、それには彼の誠実さと真剣さがどこまで、人々の心に突き刺さって、人々を動かすことができるかにかかっている。

 

 

映画 インファナル・アフェア    トニー・レオン/   アンディ・ラウ   主演

 

 

インファナル・アフェア [DVD]

 

 

タイトルの「インファナル・アフェア」というのは、英語で書くと、Infernal Affairs となり、Infernalは ”地獄の” であるとか “悪魔の” といった意味の形容詞であり、Affairs というのは “事柄” とか ”仕事“ といった意味であり、直訳すると ”地獄のような仕事“ となる、また、原題は「無間道」であり、”無間道“ とは ”仏教でいう無間地獄のことで、一度はいると抜け出せない、絶え間なく続く苦しみ“ のことであるという。映画はタイトルからしてシリアスであり、映画を鑑賞した後も、何かずっしり暗い雰囲気に包まれる感覚にとらわれる、大ヒットした香港映画であり、ハリウッドでリメイク版も作られている。

 

では、一度足を突っ込むと抜け出せなくなる地獄のような仕事とはいったい何か、と問われれば、それはここでは ”潜入捜査“ というものであり、映画では、マフィアに潜入した警察の潜入捜査官と、ここがこの映画の優れたところだと思うのだが、警察の捜査官とは真逆に、マフィアから警察に潜入し、警察官として周囲を欺いている ”潜入者“ も登場し、この二人が主役となり、手に汗握り、ハラハラドキドキのストーリーが展開することとなる。

 

トニー・レオン演じる警察官ヤンは10年という長い年月、潜入捜査官として働いている、潜入捜査官というのは、自身の生活と潜入した人物になりきった生活との二重生活を送らなくてはいけないという点において、かなりのストレスを感じ、任務が終了した後も普通の生活に戻ることに困難を伴う場合もあるという。劇中の潜入捜査官ヤンも10年という年月の潜入の結果、精神的に異常をきたしてきたのか、精神分析医の元に通っている、精神分析医は美人の女医、もっとも、マフィア仲間にはマッサージ、といっているようだが。

 

一方、アンディ・ラウ演じる、警察官として警察に潜入しているマフィアの一員、ラウもヤンと同じく10年にわたって警察官として偽りの生活を送っている、10年という長い年月警察官としての職務を果たしてきたラウには、どういうわけか良心の芽生えが起こり、ヤンと協力して、彼自身の親分でもあるサムを追い詰め、サムの呪縛から逃れようとする。が、悲しいかな、マフィアはマフィアのやり方でしか芽生えた良心に従うことができず、ここら辺がラウにとっての ”無間道“、”一度はいると抜け出せない地獄“ となる。この映画「インファナル・アフェア」では、ラウの精神の変調はそれほどみられないのだが、続編の映画「インファナル・アフェアIII」では、ラウの精神錯乱は彼を破滅へと追い込むほど。

 

そんな主人公二人以外で、この映画の見どころと言えば、マフィアの麻薬取引を阻止してサムを逮捕すべく、マフィアを追い詰めていく警察の作戦展開とマフィアの攻防、モールス信号を使っての警察とマフィアとの攻防は、まさに手に汗握る、何回かそんなシーンはあるのだが、冒頭の麻薬取引シーンの攻防は最高。

 

香港では、ジャッキー・チェンアンディ・ラウの2人、そして、レオン・ライとアーロン・クオックの2人を、合わせて香港四天王というらしい、ジャッキー・チェンはあまりにも日本でも有名、香港映画に特に興味のない方でも、映画ファンであればジャッキー・チェンの名前を聞いたことはあろう、筆者は昔、香港を旅行した時、ガイドさんにジャッキー・チェンの経営している店、と言われて鞄屋さんに連れていかれたことがある、バックを買ってしまったけれど……日本人の香港観光コースに入るくらい、ジャッキー・チェンという俳優は日本では有名だった。

 

 

           ↓ ジャッキー・チェン

ポリス・ストーリー3(吹替版) 

 

残念ながら、筆者は香港四天王の内の後者2人、レオン・ライ、アーロン・クオックを知らなかった、辛うじて、レオン・ライは映画「インファナル・アフェアIII」で、ヤンの同期のエリート保安部の警官を演じていて、ああ、あの俳優か、とおぼえがあったくらいである。おそらく、たいていの映画ファンも、筆者と同じ程度の認識ではなかろうか、特別に熱狂的香港映画ファンでもない限り。筆者としては、彼らの代わりにこの映画の主人公でもある、トニー・レオンと、映画「さらば、わが愛 覇王別姫」や「ブエノスアイレス」などでおなじみの、レスリー・チャンを香港四天王としたいと思ってしまう。

 

 

 ↓  レスリー・チャン

さらば、わが愛 覇王別姫(字幕版)

 

                   

 

この映画で ”無間道“ に入ってしまったのは、アンディ・ラウ演じるラウというよりも、やはり、トニー・レオン演じるヤン、であり、10年余りもの歳月、警察とマフィアという二重生活を送っている精神的 ”地獄“ を見せられて、最初に戻るが、映画を観終わった後、何かずっしりと思い感情にとらわれるのである、ラウが ”無間道“ に陥るのを見るには、映画「インファナル・アフェアIII」を待たなくてはならない。

 

大ヒットした映画である、潜入捜査官の苦悩と警察とマフィアのスリリングな攻防をこの映画で味わってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

映画  真珠の耳飾りの少女        スカーレット・ヨハンソン  主演  

 

真珠の耳飾りの少女 (字幕版)

 

 

 

17世紀のオランダにフェルメールという画家がいた、代表作 ”真珠の耳飾りの少女“ という絵画があり、光と影を巧みに自身の作品に取り入れたことで有名であり、鮮やかなブルーのターバンを頭に巻き、左の肩越しに振り返り、こちらを見ている、その左の耳元で大粒の真珠が光る‥‥そんな絵画である。17世紀はオランダにとっては黄金時代と言われている平和の時代であり、日本では江戸時代の初め頃、ポルトガルやオランダから宣教師や商人が日本を訪れていた時代でもあり、日本が江戸の鎖国時代に唯一、貿易をしていた国でもある。映画「真珠の耳飾りの少女」は、そんな時代に、オランダ人画家フェルメールが ”真珠の耳飾りの少女“ の絵を描きあげるまでのストーリを綴った映画である。

 

この映画は絵画に興味があり、フェルメールを知っていて、又、フェルメールのファンであるならば楽しめるだろうが、絵画に興味のないものには、ちょっととっつきにくい映画なんじゃないのか、と思うのであったら、それは間違いであり、絵画に特別興味のない方であっても、この映画は十分楽しめる映画であり、絵画に興味がないからと言ってこの映画を観ないのは、筆者がインド映画に興味がなかったから、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」を20年以上も観ずにいた、というのとまったく同じ間違いであり、せっかくの良質で面白い映画を知らずにいて、もったいないことをしている、と言いたい。

 

真珠の耳飾りの少女“ の絵は、フランスのルーブル美術館に収まっている、レオナルド・ダ・ヴィンチの、かの有名な”モナ・リザ“ の絵との引き合いに出され、”北のモナ・リザ“ ”オランダのモナ・リザ“ と言われる、少女がわずかに微笑んでいることが理由らしい。この絵画のモデルになった少女は誰なのだ、ということは今でも謎であり、フェルメールの娘か、妻か、恋人か、それとも彼が創作した空想上の少女なのか、といろいろ諸説があるようだ、映画ではフェルメールの屋敷に雇われている小間使いの少女がモデル、という設定だ、彼女はフェルメールの恋人、とまではいかないが、お互いに絵画を理解しあう同志、みたいな好意を感じあっている。

 

フェルメールは絵画の鬼、彼は小間使いの少女の中に、絵画のモデルたりうるひらめきを見た瞬間から、少女とアトリエにこもり、ひたすら絵の完成を目指す、奥さんの真珠の耳飾りを少女につけさせたのも、フェルメールの絵画に対する、或る意味狂気じみた熱中と創作意欲からであろう、と考える。そんな二人にフェルメールの奥さんは嫉妬して、ついには狂乱状態になる‥‥。

 

 

#10 オランダ・ベルギー・ルクセンブルク ベネルクス3国縦断の旅

 

オランダといえば、色とりどりのチューリップの花だの、風車だの、海面より低い国土だの、一部薬物が解禁されている国だの…すぐにイメージされるところか、国土の広さは大体、日本の九州くらいだ、映画「真珠の耳飾りの少女」では、そんなオランダの17世紀の街の様子や、庶民、貴族の暮らしぶりを垣間見ることができる。主人公で、絵のモデル、グリードは、肉屋の倅と恋に落ちるのだが、その肉屋の描写、なかなか、豚の切り落とされた頭がやまずみになっているところであるとか、割と血まみれになりながら、客に肉を切り分けてやるところとか、市場で、動物がつるされているシーンとか、切り落とされた豚の頭というと、沖縄の豚の頭の燻製がすぐに思い浮かぶが、そんな可愛いものではない、生の血まみれの豚の頭がやまずみ……。

 

家計を握っている義理の母もいい、フェルメールの絵を完成させるために真珠の耳飾りを調達したのも義理の母だった、パトロンも見つけてくるし、婿の才能をセールスすることには抜かりがない、フェルメールの生涯のパトロンとなるライフェンもラスト、完成された “真珠の耳飾りの少女” の絵を見て、動けずにいる、その理由は、絵のすばらしさに感動して釘付けになったとか、フェルメールの天才に驚愕したためであるとか想像できる、何しろその後、生涯のパトロンですから。

 

フェルメールとモデルで小間使いのグリードの関係はどうなるのか? それは映画を観てほしい、が、フェルメールには実際15人もの子供がいた、という事実を考える時、フェルメールというのは、やはり、愛妻家で、奥さんのことは奥さんとして、芸術とは切り離してしっかり愛していたのだろう、と思ってしまったのでした。

 

 

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映画 ジョン・ウィック:チャプター2     キアヌ・リーヴス   主演

ジョン・ウィック:チャプター2(字幕版)

 

 

キアヌ・リーヴス演じるジョン・ウィックが暴れまわる映画第二弾「ジョン・ウィック:チャプター2」で、第一作目と同様に、ジョン・ウィックが拳銃を片手に、今回は2時間近くにわたって、殺戮しまくるという、実に血なまぐさい映画なのであるが、映画はヒットしたようで、第一作目を上回る興行成績を記録したという。筆者も、拳銃、ナイフ、素手などによる殺戮オンパレードのこの映画、にもかかわらず、ついつい最後まで見てしまった、一体この映画、どこがそんなに面白いのか、今回は、映画「ジョン・ウィック:チャプター2」のそんな観客を惹きつけるポイントみたいなことを、語っていきたいと思う。

 

第一作目でジョン・ウィックが復讐の鬼と化してその殺戮を始めたのは、前回も書いたように愛犬を殺されて、愛車を壊された、というのが理由だった、たかが、と言ったら悪いが、しかし、それしきの理由で、あれほどまでの復讐をするのか、という展開に驚くと同時に、苦笑いも禁じ得なかった。今回、ジョン・ウィックは再び復讐の鬼と化し、引退したはずの殺し屋へと舞い戻っていくのであるが、今回は、前回よりは、観ている観客をうなずかせてくれる理由が用意されている、そのおかげもあってか、ストーリ的にも前回よりは、一本筋が通ったような気がする、前回同様殺戮は十分すぎるほど見せられるのだが、ジョン・ウィックが復讐に走る理由が多少、観ている観客を説得できるところに、まず前回との違があると考える。

 

続いて、前回も面白かった、コンチネンタル・ホテル・ニューヨーク。今回は、さらに、このホテルの掟及び、裏社会の掟や、裏社会の様子が映画の中で描かれる、この裏社会の掟が、今回、ジョン・ウィックが再び殺し屋に復帰する原因ともなる。この裏社会の殺し屋たちの世界が面白い、ニューヨークにはこんなにたくさんの殺し屋が潜んでいたのか、とか、殺し屋の世界もこんなにシステマチックであり、かつ、厳しいルールがあったのか、であるとか。本当に、映画の中では、ニューヨークの町は殺し屋だらけであった。

 

ニューヨークの町の中で、地下鉄の中で、殺し屋たちがバトルを繰り広げ、銃弾飛び交い、死人も山ほど出ていても、市民はあわてず騒がず、我関せず、日常茶飯事の子供の喧嘩を観ているように、平然としている、という描かれ方も笑いを誘う、特に地下鉄でのシーンなんかは、乗客、普通は逃げるだろう、少なくとも車両ぐらい変えるんじゃないかな、とか、車掌を呼ぶだろうとか、一切しない、ありえないよ感、たっぷりのところがいい。念のために書き添えると、この映画では、警察官は一切出てこない、少なくとも職務に忠実な警察官は、こんなところも面白い、あれだけ、殺し合いが行われているのに。

 

主人公、ジョン・ウィックは殺し屋であるので、武器、特に、銃器の扱い、性質、特質に精通している、武器を選定しているときの、彼のプロフェッショナルさ、であるとか、彼を狙う殺し屋とのバトルでの武器の扱い方や戦い方の凄さ、とか、こんなところも、他の映画に出てくる殺し屋とは違うところか、先にも書いたが、結局この映画では、警察官も一般の人々も映画のセットの一部にすぎず、ヒットマンヒットマンの世界、とその ”仕事ぶり“(?)のみをひたすら観客に見せる映画、そんなところが、この映画を他の同ジャンルの映画と差別化して、ヒットさせた要因か。

 

そんなジョン・ウィックであるのだが、前作同様、今回も彼の愛犬が登場し、彼になついて付き従い、彼と一緒に逃げる、可愛い犬なのだ、そして、コンチネンタル・ホテル・ニューヨークのコンシェルジェとの関係だけは、この映画にあって妙に人間的でもある、いい関係が描かれる、この映画を観ていて唯一ホッとできるシーン。

特に愛犬と一緒のジョン・ウィックは、これはまた、監督のギャグなのか、と思ったりする。

 

今回の映画「ジョン・ウィック:チャプター2」でも、前作同様、最初から最後まで映画では,これでもかというほどの殺し合いを見せられることになる、では、何故、この映画を観たのか? と問われれば、それは、キアヌ・リーヴス主演だから、と筆者は答える、キアヌのこのめちゃくちゃ感、彼のもう一つの代表作、映画「マトリックス」よりもハマっている役どころではないか。普通なら死んでいるだろう、と思えるところも、無敵、不死身のジョン・ウィックは敵をバッタ、バッタと倒していく、そういった、変な爽快感もジョン・ウィックが観客を惹きつける彼の魅力か、主人公に魅力がなければ、映画は成功しないだろう。

 

血なまぐさい、殺し合いの映画は観たくないという方にはお勧めしないが、キアヌ・リーヴスファンである筆者は、スクリーンから目をそむけたくなるようなシーンもなくはなかったが、キアヌ見たさに、観ました、映画「ジョン・ウィック:チャプター2」。

 

ヒットした映画である、キアヌファンの方はもちろん、興味を感じた方は、観てみるのも悪くないかも。

 

 

 

 

映画   ダーティーハリー5   クリント・イーストウッド  主演

ダーティハリー5(字幕版)

 

ダーティーハリーシリーズの最後を飾る第五作目、1988年製作であり、第一作目の「ダーティーハリー」が1971年製作であるから、足掛け10年以上もかけて完結したといえようか、第一作目から10年以上も経過しているとなると、主役のクリント・イーストウッド演じるハリー・キャラハン刑事も、当然ながら、ずいぶんお年を召されたかな、という印象をまず感じるが、マグナム44は容赦なく火を噴き、悪人を許すことなく、厳しい制裁を加えていくところは、相変わらずである。ただ、シリーズ最後の犯人をしとめるのは、このマグナム44ではなく、別の武器となる、それは何か、さっそくだが、やっぱり映画を観て確かめよう。

 

相変わらず容赦なく火を噴くマグナム44ではあるのだが、10年という歳月を経て、キャラハン刑事も多少角が取れたか、映画の始まり当初はともかく、映画中盤ともなると、女性ジャーナリストとデートして、まんざらでもなく、女性に優しい、キャラハン刑事を見ることができる。どうも「ダーティーハリー3」で女刑事の相棒を持ったあたりから、「ダーティーハリー4」をへて、キャラハン刑事と女性が絡むシーンも多くなり、ついに最終回「ダーティーハリー5」では、女性には紳士的であるキャラハン刑事の姿を見ることとなる。

 

今回も単独行動していたキャラハン刑事に相棒が付くことになるのだが、今回はアジア系相棒、アル・クアン刑事。映画によると中国系アメリカ人の刑事という設定である。白人の相棒、黒人の相棒、女性の相棒、と人種とジェンター関係の相棒がそれぞれでてきて、次は人種関係でもう一つ、アジア系相棒、ということか。キャラハン刑事の上司いわく“中国系アメリカ人の相棒であると警察のイメージアップになる” ということだ、なんだか、「ダーティーハリー3」で女性刑事を相棒にしたときの上司のセリフとたいして変わりがないのでは。そして、今回の、この相棒もこれまでのキャラハン刑事の相棒の例にもれず、その運命は想像するとおり、果たして命を落とすのかどうか、これもまた、映画を観て確かめよう。

 

今回は珍しく、キャラハン刑事が体を鍛えているシーンがいくつか登場する、相棒と一緒にウェイトトレーニングをしている、もっともこの時キャラハン刑事はウェイトではなく、トレーニングしている女性に見とれてしまうのだが、次に、ボクシングの練習、ジョギングしているところ、と、鍛えているなあ、というところを見せる、劇中にもキャラハン刑事がマグナム44に火を噴かせるのではなく、素手でもって相手をボコボコにするシーン、犯人から、とにかく走って逃げるシーンなどなど、トレーニングの成果がでているな、と思わせるシーンはある。

 

また、警察や上司とキャラハン刑事の関係も、多少ギクシャクするところはファンへのサービスか、劇中多少、描かれるのだが、今回は、キャラハン刑事が警察のイメージアップに一役買っている、であるとか、警察や上司とキャラハン刑事の関係はそれほど険悪になることもなく、キャラハン刑事も余計な横やりを入れられることなく捜査に打ち込める、といったところ、こんな描写も10年の歳月を感じさせるところと言えなくもない。

 

とはいえ、シリーズ5作目にしてなお、キャラハン刑事健在であり、相棒と違って、キャラハン刑事にあっては、犯人は生きて刑務所に入ることなく、マグナム44の弾丸の前に倒れるという運命にある。映画「ダーティーハリー5」は面白い、ダーティーハリーシリーズは5作あれど、どれも外すことなく面白い。というところが素晴らしいところであり、脚本ももちろんいいのだろうが、主役ハリー・キャラハン刑事の魅力と演じるクリント・イーストウッドの魅力も大きくその人気に貢献していることは間違いない。

 

映画「ダーティーハリー シリーズ」は1作目から5作目まで、やっぱり、すべて見ることをお勧めしたい、ダーティーハリーの魅力、わかるかなあ。

 

 

 

 

 

 

映画  ムトゥ 踊るマハラジャ    ラジニカーント 主演

『ムトゥ踊るマハラジャ』5.1chデジタルリマスター版(字幕版)

 

インドの映画である、この映画が公開された当時、20年以上も前の話だが、この映画がヒットして人気を博していることは知っていた、この映画を観た人が、面白い!と絶賛していた、が、当時、インド映画、ということで、筆者にはあまりになじみなく、映画宣伝のポスターなどから、サリーを着てダンスを踊りまくる、ミュージカル的インド映画、という先入観にとらわれて、残念ながら、この映画を観ずにいた。そんな映画だったが、“面白いんだよ” という観た人の感想がどこかに引っかかっていて、20年以上たった今、いまさらながら、観てみようかな、なんて思ったりして、結局、観てしまった。

 

それで、感想は?と問われれば、面白かったよ!と筆者は答える、そう、映画「ムトゥ踊るマハラジャ」は面白い映画だった。ミュージカル映画ではないのだが、主人公ムトゥの歌と、ダンスが、劇中ところどころ顔を出す、その歌で同じ歌詞を繰り返し、繰り返し歌う、そこが実はよかった。劇中の歌のいいところは、歌詞がシンプルであるということ、どの歌も、字幕を見る限り、シンプルなフレーズで、インドのタミル語でしゃべり、歌うのである。同じフレーズと歌詞の繰り返しである、ちんぷんかんぷんのタミル語の歌であっても、観ているほうにはテンポがよく、ダンサーたちの熱気とエネルギーが伝わってくる、映画のテンポの速い流れを感じることができるのは、観ているほうには気持ちがいい。

 

ダンスもいい、ハリウッドのミュージカル、ブロードウェイのミュージカルとは一味違った、キレッ、キレッのインド的ダンスなのである、振り付けはシャープ、ダンサーの動きもシャープ、マイケル・ジャクソンの “スリラー” にも引けをとらぬパフォーマンスだ、と筆者は称賛したい。

 

ストーリーもいい、ムトゥとご主人様をめぐる話、ムトゥの生い立ちをめぐる話、誤解にすれ違い、さらにまた誤解にすれ違い、を繰り返し、クライマックスへ。また、荒唐無稽な数々のアクションシーンもいい、スローモーションも組み込まれ、絶対的強さを誇るムトゥが爽快でかつ、気持ちがいい、こんなアクションシーンも面白い、インド映画やるなあと、映画に釘付けにされるところ。

 

この映画の本来のタイトルは「ムトゥ」であった、日本で公開されるにあたって ”ムトゥ“ の後に “踊るマハラジャ” という一言が加わった、”ムトゥ“ はこの映画の主人公の名前であるので、映画のタイトルとなるのもさもありなんで、何ら不思議はない、思うに、日本でヒットさせるにあたっては ”ムトゥ“ だけではインパクトが弱かったので ”踊るマハラジャ“ と付け加えたのか。 映画のポスターを観ても、主人公のムトゥをイメージさせるものは何もない。一方、”マハラジャ“ というのは本来サンスクリット語で ”偉大な王“ ”高位の王“ という意味であるので、”踊るマハラジャ“ というのは映画の内容を言い当てている。

 

80年代バブルのころに大ブレイクしていたディスコ ”マハラジャ“ というのがある、お立ち台なるものの上で女性たちが踊りまくる、というイメージが一番強い、現在も復活して六本木で営業中の高級ディスコである。筆者がこの映画のタイトル ”踊るマハラジャ“ と聞いて一番にイメージしたのは、この高級ディスコ ”マハラジャ“ であった、実際に映画を観てみると、ディスコマハラジャに勝るとも劣らないキレッ、キレッのパフォーマンスを見ることができた、おそらくこのタイトルは、そんな宣伝効果も狙って、日本になじみの薄かったインド映画に強烈なインパクトを与えるためのネーミングでもあったのではないか、と、筆者は勝手に想像する。

 

筆者は当初、インド映画と聞いてあまりのなじみのなさに、若干引いてしまった、ムトゥが主人公の名前だともわからなかった、これからこの映画を観ようと考えている方々には、どうぞそんなことのないように心から祈っている、映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」は面白い!ずいぶん遅まきながら、筆者もその面白さを堪能できてうれしく思う、お勧めの映画です。

 

 

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映画 市民ケーン  オーソン・ウェルズ 主演 /    オーソン・ウェルズ 監督         : 悪くないけれど残念な映画

 

 

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オーソン・ウェルズの監督デビュー作品でもあり、“世界映画史上のベストワンとして高く評価されている” 映画、とも言われている。さらに、オーソン・ウェルズ演じる新聞王ケーンは、実在するウィリアム・ランドルフ・ハーストという人物をモデルにしており、彼は実際に ”新聞王“ と呼ばれていたという、そのため、この実在する新聞王ハーストによって、映画「市民ケーン」は上映妨害運動が展開され、アカデミー賞にも9部門でノミネートされていたのに、実際、受賞したのは脚本賞だけ、という。ハーストという人は自分がモデルにされたことに、ずいぶん激怒した、と想像できる。

 

では、実際の内容はどうなのか、モデルにされた本人が、上映妨害したくなるような、そんな内容なのか。映画の前半は、養子に出され、25歳になって莫大な財産を相続したケーンが、新聞社の経営をはじめ、大成功をおさめ、人生の勢いに乗り、大統領の姪と結婚までして、ついには、ニューヨーク州知事を目指し、州知事選に打ってでる、という活躍ぶり、そんなケーンの成功ぶりを、どちらかというと、明るく、活発に描いているのが前半だ、映画なので、多少大袈裟に脚色された部分も無きにしもあらずだったかもしれない、が、モデルにされた人物が映画の上映を妨害したくなるような描かれ方では決してなかったと思う。

 

では実在のモデルが、上映妨害したくなるほど気に入らなかったのは映画の後半か、映画の後半では、愛人のいることがライバルにばれて、それをネタに脅されて選挙に負ける、そのせいもあり、大統領の娘の奥さんとは離婚に追い込まれる、オペラ歌手を目指していた、元愛人だった新しい妻のために、ずいぶん立派なオペラハウスを作ってやるのだが、奥さんのオペラ歌手としての実力不足のために、周囲の者からは笑われる、とうとうニューヨークから脱出、郊外に巨大な屋敷を建てるも、使用人とケーンと奥さんだけという、超巨大な屋敷にたった二人だけの生活、耐えきれなくなった奥さんには出ていかれる‥‥と散々な目に合う、巨万の富があっても、金だけでは幸せになれない、という見本のような生き方である。おそらく、こういった映画後半のケーンの描かれ方が、実在の本人には我慢ならなかったところではないのか、と筆者は考える。

 

この映画では “Rosebud (バラのつぼみ)” という言葉が、最後まで謎として、登場する、ケーンが死の間際につぶやいたこの言葉は何を意味するのか、と。何を意味しているのかは映画を最後まで見てほしい。映画「市民ケーン」と言えば “Rosebud (バラのつぼみ)” といって、映画好きならば、だれもがすぐに連想できるほどの有名なセリフであり、人気シリーズであったTVドラマ「刑事コロンボ」の中の「攻撃命令」という回でもこの言葉はでてきて、この言葉はドラマの中ではかなり重要な鍵となっている。もしかしたら、この “Rosebud(バラのつぼみ)” の秘密が、実在の新聞王ハーストは気に入らなかったのだろうか、センチメンタルすぎる、とか、触れてほしくない琴線にはからずも触れてしまったとか…、これは筆者の勝手な想像ですが。

 

確かに、この映画で ”Rosebud(バラのつぼみ)“ の秘密は意外だった、が、ストーリーは後半の郊外に建築した邸宅のあたりまでくると、人間的な凋落ぶりに、ケーンに憐れみすら感じてしまう、だれもがうらやむ億万長者なのに。結局、お金じゃないよ、お金があっても幸せになれるとは限らないよ、お金ですべての夢がかなうわけではないよ、大切なものはほかにある…という、素朴な真実を訴えたかったのか。

 

というわけで、最初にも書いたように、この映画が “映画史上のベストワンとして高く評価されている” にもかかわらず、上映妨害にあって、アカデミー賞9部門ノミネートされたけれど、一部門のみの受賞にとどまったという事実をもってして、ストーリー的にも、劇中で試みられている、素晴らしいざまざまなテクニカル的にも “悪くはなかった” のだけれど、 ”残念な映画”  にしたいと思う。

 

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映画  三つ数えろ   ハンフリー・ボガート 主演

 

 

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レイモンド・チャンドラーの生み出した探偵フィリップ・マーロウと言えば、もう、ハードボイルドの代名詞ともいえる有名な探偵であるが、今回、ハンフリー・ボガートがこのフィリップ・マーロウを演じ、先に紹介した映画「マルタの鷹」の探偵サム・スペードに続いて、男の中の男(?)、堅ゆで卵のハード・ボイルドを演じて魅せてくれる。今回は、マーロウの相手は謎に満ちた美しいお嬢さんを演じるローレン・バコール、ボガードとバコールが結婚していたというのは知らなかった。

 

大富豪のわがままいっぱいに育った姉妹、妹の方がある事件のためにゆすられていて、それを何とかしてくれという大富豪からの依頼、依頼を受けてゆすり相手の古本屋を訪ねるところから事件に巻き込まれていくマーロウ、ストーリーは面白い、姉のほうもいわくありげで一筋縄ではいかず、事件は事件を生み、ストーリーはこんがらがって、この映画もしっかり見ていないと、わけがわからなくなってしまうかな、という感じ。

 

この映画「三つ数えろ」にも、見せ場はいろいろあるのだが、筆者はこんなシーンを気に入っている、ゆすり相手の古本屋の向かいにもう一軒古本屋が、その向かいの古本屋の店員のお嬢さんとお酒を酌み交わしてのやり取り、眼鏡をとって髪を下した彼女に向かって、マーロウが一言、「みちがえたな。」この時、英語では「Hello」と言っているのだが、この時のいい方、アルファベット “o” にアクセントを置いて、彼女と目と目を合わせ、ハスキーな声で ”Hello“ といった。こういった ”Hello“ の使い方というか、言い方、面白かった、ストーリ展開とは全く関係のないこんなシーンにも、筆者は興味を感じたりしてしまう、ちょっと、粋なシーン。

 

もう一つは、やはりラスト、最初に死体が転がっていた屋敷で犯人と対決をする、この時の決着の付け方、うまかった、犯人の企みを見破っていてそれを逆手にとっての勝負、女性の扱いだけではなく、頭のほうも冴えに冴えているフィリップ・マーロウはやっぱりカッコいい。そして、さらに、ラストのラスト、この展開はいろいろ意見もあろうと思うが、一つ言えることは、ハードボイルドのフィリップ・マーロウ、女性には優しいということか、もっとも、依頼人の大富豪を気遣った行動ともいえるか。

 

こんなことに気づいて、書いてみようと思うのは、おそらく筆者くらいのものだと思うので、書いてみるが、クリント・イーストウッドは自身が監督した映画「ダーティー・ハリー4」では、この映画「三つ数えろ」をある意味、なぞったか、または、ハンフリー・ボガート演じるフィリップ・マーロウへのオマージュだったのか、と筆者には思えてならなかった。ダーティー・ハリーこと、キャラハン刑事も第4作目においては、女性に優しいラストであった、やっぱり、はっきり言って、映画「三つ数えろ」と同じだった、また、どちらの映画にも姉妹が出てくるのも同じだが、この姉妹は事件と大きく関係があり、これもまた、どちらの映画でも、妹のほうは精神を病んでいる、という設定、精神を病むに至った経緯などはもちろん異なるだろうが。また、主役の刑事と姉妹の姉のほうは、恋に落ちるとまではいかないと思うが、お互いに好意を持ちあう流れ‥‥などなど、全く異なったストーリーなのだが、ベースになる軸、というか、核は同じ、と感じる。

 

 

【映画パンフ】ダーティーハリー4 クリント・イーストウッド

↑  ダーティー・ハリー4

 

 

 

だからと言って、映画「ダーティー・ハリー4」がよくない、とか、けしからん、というわけではなく、映画「ダーティー・ハリー4」は、それはそれで面白かった、クリントー・イースドウッドもよかった、最後まで抵抗していた犯人はクレイジーすぎて、あの結末以外は、観ているほうも納得しかねたかもしれない。

 

映画「三つ数えろ」で若干、不満に思うのは、最後の終わり方で、あれはあれでいいのかもしれないが、なんだか、尻切れトンボ風、中途半端風、余韻ゼロ、と感じてしまって、そういう意味で言ったら、全く同じラストではあるのだが、クリント・イーストウッド監督のほうがうまく撮った、と、この点においては、映画「ダーティー・ハリー4」に軍配を上げてしまいたくなる、筆者でした。

 

マルタの鷹(1941) (字幕版)